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2006年10月31日 (火)

社会全体が、いじめの構図

「いじめを苦にしての自殺」という事件が相次いでいる。しかし「いじめ」は学校だけでなく、今いたるところで行われている。

 まずはテレビの報道、確かにいじめを放置した学校や校長に多大な責任はあるが、何か事件が起きたときに、攻められ追い回され、まじめな人ほど、次に自らの命を絶つまでに追い込まれるのではと懸念していたら、本当に校長先生が自殺してしまった。

また、自殺をした女子中学生の遺書や周りの事情から、いったんはその父兄に「いじめだ」と謝罪しながら、翌日は「いじめだとは言えない」とか、「いじめが自殺の原因とは言い切れない」とか、他からの影響を配慮したにせよ、煮え切らない態度は、不信感を持つことになる。そういうことが、生徒にしても先生を信じきれないことになってはいないだろうか。

 学校でのいじめを云々する前に、大人が、まずくだらない手本を見せないことだ。子供は何もなくていじめに走ったりはしないのだ。大人の社会に、いじめの手本があり、子供は、それを繰り返し見聞きしていることを忘れてはならない。

そして国会の場、「ここが、いじめの原点か」と思わせるほどの陰湿さ、はしたなさ、ただ相手を攻撃するだけの態度、国政に関係のないような質疑応答、これらは言論に勝っても何の国益にもならず、いじめの典型ではないか。こうした場面を国民の前に見せつけ、若い学生諸君や生徒に見せている以上、知らず知らずの間に、いじめの土壌を培っているのではないだろうか。

昔から、「上のおこなうところ、下またこれに習う」のたとえの如く、まず国会議員から襟を正すべきである。汚職であろうと、政治献金であろうと、秘書給与であろうと、次の選挙で当選さえすれば禊を終えたとすること自体が、おかしくはないか。国民の範となれないような者は、議員たるべきではなかろう。

人は、いつ攻める立場から、攻められる立場に変わるかわからない。自分の意志でなくても、一瞬の不注意が大事故に繋がることもある。私も、ある所でいわれのない非難を受け、「罪人は、人の言葉で作られる」と感じたことがある。「大声で、また数多く発言した方が勝ち」といった風潮だ。「沈黙は金」という格言も、今や死に掛けているようである。

 何かことが起きると、よってたかっていじめる社会をまず変えていくだけでも、世の中は変わると思う。マスコミも、真実を報道するという名のもとに、相手を追い詰めることだけはやめてもらいたい。人の生命は、何よりも尊いのだということを忘れぬように。

そして、どんなことがあっても味方になってくれる存在が、本当は親であってほしい。家族であってほしい。そして教師であってほしいと思う。

それがいじめの構図の中で、乗り切れる大きな支えになるからだ。 間違っても、最後のとどめをさすようなことだけは、したり言わないで欲しい。

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2006年10月30日 (月)

高校未履修問題について

教育基本法の改正が云々されているさなかに、 全国で、必須科目を教えていなかったために、高校を卒業出来ないという問題が発覚し、報道のたびに該当する学校の数が増えている。「○○よ、お前もか」というのはたやすいが、当の大学受験を控えた生徒にとっては大問題である。

10月28日現在で、396校7万人以上の生徒が単位不足の恐れがあり、卒業できない可能性があるという。今になって補修を行うにも、受験生にとっては大変な問題である。と同時に、形だけ履修させても、この受験期になって頭になど入るわけがない。そうでなくても、受験生の気持ちは神経を使っているのだ。心情的には、受験に専念させてあげたいと思う。

報道によれば、今年だけではなく、ゆとり教育の導入によって、週五日制になった頃から急に増えたという。ということは、すでに単位不足でここ数年間卒業しているということではないか。

 発覚したから急に卒業させないというのもおかしいし、今更数年間さかのぼって卒業を取り消すというのもいかがなものか。むしろそのようなことは出来もしないし、すれば大混乱の元になる。公立高校と私立高校とで、履修科目の組み方も異なるというし、公立高校のみ卒業できないというのも変だし、そのようなことになると、益々公立離れを助長することになりはしないか。

 本来は文部科学省の指導要領に基づいて行われるべきは当然のことではあるが、数年にわたって行われてきたことが見過ごされてきたのであるし、その意図は大学受験のために生徒の負担を軽減し、受験に専念できるようにとの学校側の配慮によるとすれば、文部科学省と現場との間に

認識の隔たりがあったということであるから、権威でもって履修を強制することよりも、昨年までと同じくこのまま卒業させて、互いに反省すべきところは反省し、修正すべきところを修正するということで、前向きに検討すべきではないか。

来年度から、こういうことのないようにすべきである。一校二校ならばとにかく、これだけの数の学校において行われていたということは、文部科学省にも責任があることを認識すべきである。生徒には何の落ち度もなければ、大事な受験期を迎えての心理的な圧迫は避けるべきである。

 

戦後教育を根本から見直すべき時が来たのだと解したい。今教育改革が論じられているが、そもそも『教育とは何ぞや』を論ずることなく、愛国心がどうの、偉人伝を導入せよとか、いろいろ論じられているが、もちろんそうしたことも大切ではあるが、教育の根本を考えることなく論じても意味はなかろう。

教育とは、教えることではなく、育てることである。今のように学習指導要領に基づいて教えたよというようなものが、果たして教育といえるのだろうか。育たない限り、教育をしたことにはならないのだ。人格形成こそ、教育の真髄ではないか。

詳しくは、『教育改革に思う』の小冊子を参照されたい。 

 

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2006年10月28日 (土)

歴史の学び方・生かし方

歴史の授業でも、「いつ、どこで、誰が、何をした」などということばかりを覚えているから、何も残らず、人生の栄養にならないのだ。

そうした知識偏重の今の教育は、本当の意味での人格形成には役立たない。信長や秀吉や家康の生き様や長所と短所を学び、自分の性格に合わせて行けば、信長よりも、秀吉よりも、家康よりも素晴らしい人生を歩むことが出来るではないか。「いつ、どこで、誰が、何をした」などと覚える勉強から、人生に役立つ勉強へと変える必要がある。

今は、明治維新に対して、平成維新とも世界維新とも呼ぶ人がいる。時代は、一つの決められた流れが行き詰まり、新しい流れを必要とされるときが来ている。

かつて明治維新の時には、「士農工商」という身分の壁が崩れた。武家社会が崩壊した。それと同じように学歴社会という人の価値観が崩れるときが来る。大学もよほど心しないと、大学そのものの価値が薄れてくる。むしろ教育そのものの本質を見直すときが来るというべきか。

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2006年10月27日 (金)

磐石な土台から、磐石な人生が生まれる

どんな事柄にも、土台が必要だ。土台が弱いところには、上に積み上げていくことは出来ない。

今は、ツーバイフォーなどであっという間に家が建つが、かつては家を建てるときに土台をしっかりと突き固めてから、建てていた。

土台を固めることは地味なことが多い。一つ一つ積み上げるように自分のものにしていかなければならない。しかし磐石な土台から、磐石な人生が生まれる。

人生の土台とは何か・・大事なことだけにまず自分で考えて欲しい。人から教わり「ふーん、そんなものか」と軽く流してしまうのは、余りにもったいないことだからだ。

もし、「これだ」と気づくものがあったら、実行してみて欲しい。三日坊主ではなく、まず一週間、それが出来たら一ヶ月、それが出来たら三ヶ月と日々積み重ねていくことに価値がある。

いちいち考えたりせずに、自然に出来るようになってはじめて、その人を支える土台になる。

「考えもせず」「実行も惜しむ」ようでは、何も発展はしないし、物事を動かすことも出来ない。

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2006年10月26日 (木)

人生の師

人が人生の体験から得たものには、どんな高価なテキストでも得られない珠玉の価値がある。成功した人からも、失敗をした人からも、そのつもりになれば、大きな宝をもらうことが出来る。

今は学ぶというと、机に向かってすることだと勘違いをしている。そして教科書から、先生に教わるものと思っているが、人生から学んで得られるものに勝る宝はない。

自分が真剣にぶつかる人生、先輩が全力で手にした人生。

これから人生の設計をし、それを実現していきたいと思うのであれば、先輩の人生から多くを学べ。今、生きている人からでも、すでにこの世を去った方からでもだ。

学ぶことは、「まねぶ」ことであり、まねをするところからはじまる。自分はどの人に似ているのか。どの人のような生き方を目指したいのか。自分の性格ではどこが足りず、それを補うにはどうしたらいいのか。真剣に人生に取り組めば、必ずお手本とする人を見出せるはずだ。

可能ならそうした人と直接触れ合う機会を持ち、その出会いを人生の宝として大切に生かして欲しい。

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2006年10月25日 (水)

人を見極めるポイントは

人はどうしても、その人を見るときに、現れた結果だけを見る。プロフィールを見るにしても、その人の経歴、肩書きだけに目を向けて、一番大事なところに目を向けない人が多い。

しかし大事なことは、その人の基盤となっているものに目を向けることだ。

その人の考え方の基本は何か、土台はどんなものかを、見ることが大切だ。

何がその人の土台となっているのだろうか。

もしその土台が、人を踏みにじっての恨みの上に建っているものならば、遠からず土台から崩れるであろう。時代を先取りし、躍進しているように見えても、腐った土台から大きな柱は立たないものだ。

今までの経営者で、一世を風靡したかに見える人でも、それが当てはまる人がどのようになっていったかを冷静に見てみることだ。

腐った土台が崩れるのが、早く来るときには、まだ軽いものだか、「あれだけひどいことをして、すごくうまくいっているじゃないか」と思える人がいたら、要注意だ。結果が出るのが遅い人ほど、出て来たときには大きな崩れとなって現れる。下手をすればそれに追随していると、雪崩に引き込まれるように、自分のところも土台から崩されることすらある。

(詳しくは、4月からの大志塾「経営セミナー」 『活眼の開き方』で、具体的に行います)

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2006年10月24日 (火)

人生の設計図を描こう

積極果敢に過すといっても、ただがむしゃらに進むのがいいのではない。

家を建てるときにも設計図がいる。掘っ立て小屋でもない限り、それは大きくても小さくても、土台があり、中心になる柱があり、またいくつかの柱があり、屋根がある。そして初めて家としての役目を果たせるのだ。

家は単なる建物としての空間ではない。一家団らんの場であり、心の安らぎの場であり、魂の憩いと活力の源である。最近の家庭には、この観念が忘れ去られている。会社の社屋についても同じだ。

単なる物としての設計図では人生そのものが空虚となる。自分の成し遂げたいことは何か。そのための土台には何が必要か。中心になる柱は何になるのか。真剣に考えてみてはどうだろうか。

同じ金閣寺を見ても、「ただ観光で、通りすぎてしまう」のと、

「ポスターの撮影などの目的があって見つめる」のと、

さらには「実際に金閣寺と同じもの、もしくは似たものを建てようとして見る」のとでは、見えてくるものも違えば、気づくものもまったく違ってくる。

「観光で通り過ぎる」とは、たとえば、会合などで人と会い、名刺を交換し、一緒に写真を撮ってそれでおしまいという時などである。こんな人とも会ったのだという自己満足で終わる人が多いが、その出会いから名刺や写真以外に、何か得たものがあるだろうか。それでは観光として通り過ぎるのと、なんら変わりはない。

「撮影などの目的があって・・」とは、その人をいかに引き立たせるか、その人の良さをいかに引き立てるかという目で、相手を見るということだ。単なる観光者とは違う視点で見ることが出来よう。

経営者は、シナリオ作家であり、監督であること。いかに社員をスターに育て上げるか。また、相手役として取引先を如何に引き立たせるか、それが出来る目を養うことだ。

人事担当者は、社長が書いたシナリオに合うスターをはじめ、脇役にいたるまでを探してくるのが役目である。たとえば開発に合う人、営業に合う人、経理に合う人など、一律に成績主義で採用している今の制度は異なることになる。

「実際に金閣寺と同じものを作りたい」と思ってみるとは、たとえばあの人と同じような成功を収めたいと思って接する時、その人の土台や柱は何か、出来ればその人がその成功を収めるまでどう組み立てていったのか、土台や柱にいたるまで気になって見るのではないだろうか。その時初めて、設計図が必要になってくる。

「気づき」が、人生の扉を開くとすれば、人生の設計図は、その鍵を握る大切なものになる。どのような人生を送りたいかは、各人各様である。

11月の宿泊研修は、「人生の設計図を描く」ことである。各人十二分に会得して欲しい。

(ご案内、申し込みは、こちらの内容紹介・申込書をご覧下さい )

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2006年10月23日 (月)

衆議院補選について

10月22日の衆議院補選は、神奈川16区と大阪9区ともに自民党の勝利となった。

新聞などの論評では、自民党は、北朝鮮の核問題に対し、安倍新総理がすみやかに中国・韓国を訪問したり、国連安全保障理事会での北朝鮮制裁決議の採択を、米国とともに主導したことや教育問題への取り組などの信念が,国民の信任を得たものとみている。

 これに対し、民主党は「格差問題」を中心に戦ったが、国民の生命財産を守るべき北朝鮮の核問題を軽視し、さらにこの事態を「周辺事態と認定できない」とする小沢代表に対して、前代表の前原氏は公然と反対し、党内不統一の状態での選挙戦となったとする。

 表向きは、これらの論評の通りであろう。しかし、勝敗は、すでにこの選挙の前に、ついていた。民主党の支持率は、大きく下がっていたのである。

 それは、安倍新総理の所信表明演説に対する質問に現れていた。

岡田元代表、前原前代表の質問から、二大政党としての自覚と心意気を感じられた人がおられただろうか。揚げ足を取り、皮肉を言い、民主党は、完全に野党に成り下がったのかと思わせた。

かつてケネディ氏とニクソン氏が大統領立候補者としての対談の際、ニクソン氏はさかんにケネディ氏に対する個人攻撃を試みたが、ケネディ氏はひたすらテレビに向かって自分の考えを国民向けに話したと言われているが、民主党の質問者と安倍総理の答弁に、この傾向はなかっただろうか。

また、岡田元代表は、なぜ代表の時に選挙に敗れたのかの反省をしておられるのだろうか。「郵政」を掲げての選挙の際には、自民党は、刺客を送り、離党を促し、党内の不協和、分裂を露呈した大変に醜い選挙であった。普通なら民主党に流れが傾いて不思議なかったのに、なぜ自民党の大勝利に終わったのか。

一つは、国民は誰もあきらめていないのに「日本をあきらめない」というスローガンを民主党が揚げたことだ。「日本をあきらめない」と思って、投票に行く人がいるだろうか。そうした国民の感情すら読めず、選挙という大切な戦いの場で、こういうマイナス思考は、戦わずして敗れているのである。このことに気がつかない限り、何度やっても敗戦は間違いなかろう。

積極果敢なスローガンで、簡潔明瞭に何をしたいのかを述べることが大事なのだ。そういう意味で、内容はともかくとして「郵政改革」を唱えた小泉前総理は有利だった。

 さらに前原前代表の質問である。代表を降りた原因はなんだったのか。反省は十二分になされたのだろうか。国民からすれば、まだ十分禊が終わったとは思われない、この二人が質問する姿を見て、厚顔無恥の感をぬぐわれないし、せっかく二大政党として期待した民主党に対して、他に人材がいないのだろうかと失望の念を抱いてしまうのである。これでは、政権を託すわけには行かないとなれば、支持率が下がるのもやむを得まい。

 少なくとも前回の選挙で、民主党は大敗したのである。そんなときに危機意識が薄いと受け取られることは、とても国政は託せないと思わせるに十分だ。今、日本は、北朝鮮の核問題などで、危機意識を持たなくてはならないときである。

これからの日本にとって、二大政党は必要なのだから、民主党も国民の期待を裏切らないようにがんばってほしい。

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2006年10月21日 (土)

積極果敢に、人生を過せ

人は、守りに入ると弱くなる。臆病になり、頭の働きが悪くなる。

それは失うものを恐れる余りに、自分(あるいは自分の会社)のことばかりを思うようになるからだ。そして失うまい、減らすまいとそのことばかり思って、その結果、気がついてみたら時代に取り残されていたということが起こる。

時代は、常に動いている。同じところでの現状維持を望むのは、かえって衰退に繋がることを知るべきだ。自分だけのことを思って、殻にこもっていては世の中のことは見えない。

昔から、攻撃は最大の防御なりと言われているが、人生、守りに徹しても一生、積極果敢に過ごしても一生だ。同じ過ごすならば、積極果敢に「今の時代には、何が必要なのか」そして「自分に出来ることは、何か」と目を向け、行動すべきだ。

役目があって人は生かされている。そして不要な人など一人もいないのだ。ただ現代人は、その役目を知ることなく、いいとして暮らしているに過ぎない。

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2006年10月19日 (木)

命の尊さを知れ

「世の中を改革するには、まず教育から」と誰しもいう。しかし、「命の大切さが土台にある教育でなければ意味がない」とは思わないだろうか。

人として生きるのに、何が大切なのか。「何をしなければならないか」、そして「何をしてはいけないか」が置き去りにされた教育改革など、机上の空論に過ぎない。

 花でも虫でも、おしべが何本、めしべが何本、足が何本などという知識ばかりが先行し、そこに命が宿っていることを教えていない。すべてのものには命が宿っているということを感じずに、面白くなければあたり散らす。人を死ぬほど追い詰める。

 単なる知識だけでは、人は育たない。身体だけ育っても、心や魂が育たない。

そんな現実が、今の世の中を作り上げてはいないだろうか。

 「自分がされていやなことは、人にもするな」そして「命の大切さがわからないものは、教育にも、経営にも、政治にも携わるな」と言いたい。

 まず「命の尊さ」を知ることから、すべては始まる。人の世界である以上、人の命が原点なのだ。

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2006年10月18日 (水)

絶対に、自殺をしてはならない

小学生・中学生が、いじめを苦にして自ら命を絶つという事件が相次いで起こっている。夢や希望が満ちている年代で、自ら死を選んだということは、どんな気持ちだったろうかと胸が痛むと同時に、しかし「自殺は絶対にしてはいけない」と伝えたい。

 なぜか? 人は、「死ねば楽になる」と思っている人が、ほとんどだ。しかし「死んでも、決して楽になどならない」からだ。

人の命は、自分の意志で与えられたものではない。生まれるときが自由に選べない以上、死ぬときも勝手に決めることなど出来ないのだ。

 人は、死という形でこの世から肉体が無くなっても、魂は生き続ける。それも永遠に生き続け、死んだときの状態がそのまま続くということを知ってほしい。

事故も、病気も、死んだ時のままだ。だから亡くなった後の供養が必要になる。しかし・・自殺は、一般の供養では、救われない。自ら命を絶つということは、本当は大変なことなのだ。

 人生の中に、一度や二度は「もう死んでしまいたい」「何もかも捨てて、楽になりたい」と思うことはある。しかし、死を選んでも、絶対に楽にはなれないのだ。必ず死んでから、後悔する。忘れないで欲しい。

 それは何も小・中学生だけに言っているのではない。 日本には今、毎年三万人を越える人が自ら命を絶っているという。経営の行き詰まりで、自ら命を断つ経営者も多いと聞く。

しかし、そういう状態にもし追い込まれ、「もう、だめだ」と思いかけたら、直ちに自分で取り消して欲しい。

 「もう、だめだ・・・じゃない!!!」と。言葉の持つ力は、すごいものがある。人生を切り替えるほどの力があるのだ。

命は、天から与えられたものだ。そして諦めない限り必ず乗り越える道、切り開いていくための力は与えられるのだ。苦しい時こそ、今日のこの話を思い出してほしい。忘れないで欲しい。

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2006年10月17日 (火)

スローガンと本心は一致しているか?

 二代目の経営者の人が、心しなければならないことがある。

初代の経営者が、社是とし、あるいはスローガンとして掲げていた言葉は、胸に響くものが多い。

二代目の人は、事業を受け継ぐ時に、ただ肩書きや財産を受け取るだけではなく、会社を牽引してきた先代のその言葉、その心を自分のものにして、それを口に出しているだろうか。

言葉には、「言霊(ことだま)」と言って霊魂が宿っているとされ、したがって人の魂をも動かす力を持っている。特に「本心と言葉が一致した時」にその力は本領を発揮するのだ。

大事なことは、スローガンを言う時に、自分が本心からそう思い、言葉が自分の魂に入っていることである。

 その言葉と、自分の魂が一体となるくらいのものがなければ、人の魂を動かすことは出来ない。

どんなにいいスローガンでも、ただ口先だけの棒読みをしていたのでは、物事は動かせない。

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2006年10月15日 (日)

大志塾と国家経営塾

政治家を養う塾には、ディベートがつきものだと思われている。しかし国会での軽薄な揚げ足取りが、どれほど国のためになるというのだ、と言いたい。人を攻めたり、口先の論戦の技術を磨くことだけが、政治ではないはずだ。

 私が考える国家経営塾では、単に日本の国益だけを考えるのではなく、国際舞台においても本当の意味での政治(まつりごと)の出来る人材を育てていきたい。

 すべて段階がある。まず、志のある経営者を集めて大志塾を行い、活眼の開き方、発想柔軟法、逆境の乗り切り方、さらに呼吸法、丹田活性法などを行い、仕事を通じて世の中に貢献したいという人の、心と魂を磨く場、同じ志を持つ人同士の胸襟を開く場を提供したいと思っている。

4月からの1期生は、1年の予定である。2期生、3期生と続けていく予定で、そこから国家経営塾へと展開していきたいと思っている。

 まずその前提として、11月18・19日に、1泊2日の宿泊研修を行う。詳しくは、ブログ内の若手経営者セミナーへのご案内を見てほしい。

ところで「若手経営者」といわれると、「自分には、年齢的に資格がないのでは」と気にしている方がいた。原則は、20代から40代くらいの人を対象としているが、こちらでいう「若手」とは、実年齢ではなく、精神年齢が若いということだ。今までの常識や自分の固定観念にとらわれずに、新しいことを吸収しようという柔軟性、そしてそこから学んだもので、世の中のためにやってやろうという心意気の人は、若いのだ。そう捉えてほしい。

大志塾は、まず「仕事を通じて、何らかの社会貢献をしたいと思う人」「志のある人」「今の世の中が、これではいけないと感じている人」「傍観者でなく主体性のある人」に、ぜひお集まりいただきたい。

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2006年10月12日 (木)

皆と同じことをする?

人と異なることをしようと思うと、必ず反対にあう。

公務員でも「大過なく勤め上げ・・」ということ、前任者通りということが、物事をすんなり通す秘訣でもあり、処世術だと思っている人が多い。

 しかし今まで時代をリードしてきた人たち、成功者と言われた人たちは、皆今までの殻を破り、時には常識を塗り替えて、新たな事業を開いてきたのである。

 人と同じことをし、人と同じ目線で世の中を見ていたのでは、決して時代を導くことなど出来はしない。一歩も二歩も先を見なければならず、全体の中の位置づけにも留意しなければならぬ。

 まずは自分の眼を開くことである。活眼を開くというが、その活眼はいかなる眼であろうか。肉眼の目か、心眼の目か、霊眼の目か、神眼の目か。まずは、肉眼の目から開くほかあるまい。その一番の秘訣は「人の為に」と思えるかどうかである。

自分の繁栄だけを考えている時には出てこない発想が、「世のため、人のために」との思いですると、飛び出してくるようになる。昔から『大所高所より物事を見、考えよ』と言われてきたのも、こうした点があるからである。

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2006年10月11日 (水)

『北朝鮮の核実験』に思う

 北朝鮮が、国連や各国の制止を振り切って、核実験を強行したという報道がなされた。政策の善悪のコメントは、専門家の方にお任せするにしても、一般に報道されている事柄から、考えられることを一部述べてみたい。

 国際的な駆け引きの舞台では、何かというと「経済制裁」という言葉が出る。そして「言葉にならない威嚇は、核兵器である」ことは、誰もが認めているのではないだろうか。

北朝鮮が、世界中の非難を覚悟の上で、核実験を行うということは、「もし自分の国が滅ぼされるのであれば、自分たちだけでは済まさない。外国も巻きこんでやるぞ」という、威嚇と取れなくもない。

こうした中で、経済制裁をするということは、いかがなものであろうか。

 北朝鮮は、「軍事に相当の力を注いでおり、その反面それ以外の国力は大変に苦しい状態にある」と言われる。 それを外国からの経済制裁という形で、外圧を加えることは、ますます北朝鮮を孤立させ、かえって危険な存在に追い込むことになりはしないか。

 それで相手が折れ、交渉の席に出てくる可能性もなくはないが、最悪の場合は、「窮鼠猫をかむ」という可能性が、皆無ではないのだ。本当に危険な状況となった時、最も先に被害を受けるのは、アメリカではない。中国でもない。この日本である可能性が一番高いことを、政治家はどう受け止めるのか。

 では、経済制裁以外には、どんな方法があるだろうか。

孟子は、「民を貴しと為す。社稷(しゃしょく=国家)これに次、君を軽しと為す」と言っている。国民が困窮しているから、援助を願い出る為政者ならばともかく、自分の権力誇示の為に、核の軍備拡張に走る者は、もはや本当の王者になる資格はないのである。

まして争い事の世界は修羅界のことであり、これを相手にしていると、日本の品格まで修羅の世界におちてしまうことになる。

よって「そのまま何もしないで放置しておく」ということも、一つの手のように思う。なぜかと言うと、北朝鮮という国の経済は、そのようなことをしなくても破綻寸前だからである。外国からは、何も力を加えない、挑発は無視する。そして援助もしない。

外国から、経済制裁を受けたという口実を与えない方が、軍事の道へひたすら突き進む危険を少しでも回避出来るはずであり、また援助もしないほうが、かえって北朝鮮の中の膿を出す早道かもしれない。北朝鮮にも、当然、「復活の道を進みたい」と願う人はいるはずであり、そのほうが本当の親切なのかもしれない。

本当に苦しんでいるのは、どこの国でも一番弱いと言われる人たちである。国際的な駆け引きは当然にしても、そうした陰で苦しむ人たちを、少しでも早く救っていかれる道をつけていくことも、本当は日本人の役目ではないかと思う。

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2006年10月10日 (火)

必ず朝は来る

悩みがあると、夜、眠れないことがある。また人生の中には、暗いトンネルを進むが如くに、どこまでも光のささない辛さを味わうこともある。

しかしどんなに長い夜であっても、朝の来ない日はない。

辛い時こそ、自然を見よ、朝日の中に希望と活力を見出していけ。人の小さな頭では、解決出来ないように見えるときでも、そこに自然の大きな力を感じて進むことが出来れば、どんな困難も乗り越えていくことが出来るはずだ。

 朝日を浴びる、朝日に手を合わせるというと、宗教的に捉える人がいるが、日本人が昔からしてきたことである。時代が変わっても、真っ暗な空が白み、朝が来ることには変わりない。

 ただ自然のめぐりに感謝する心を持ち、そしてその力を受けて進んでいくか、そうした力を無視し、自分の力だけで生きようとしているかの違いだけではないだろうか。

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2006年10月 9日 (月)

役目を、全うせよ

世の中の仕事には、大きな役目もあれば、ねじくぎ一つのような小さな役目もある。大事なことは、役目の大小ではない。どれだけその役目を全うしたかでその評価は決まるのだ。

しかしその前に、自分の仕事はどんな役目を持っているのかを知らなければ、道をそれたことにすら気がつかないのではないだろうか。人生、全力疾走するにも、方向違いに走ったのでは意味がない。

完全燃焼の人生を送るためには、走る方向も見極めなければならないのだ。

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2006年10月 6日 (金)

国会討議に思う  自ら省みて質問せよ

国会の場で、田中真紀子議員が、安部総理に質問をしている姿を見て三つのことを感じた。

一つは「親を超えることは、本当に難しいことだ」ということ。

二つ目は、それを見ていて、コメントする人の無責任さと言うか、判断能力のなさである。

三つ目は、本当に戦う相手は何なのかということである。

田中真紀子議員は、安部総理に対して「子供が大人の靴をはいて・・云々」と言うことを述べ、それをテレビでは、真紀子節炸裂とコメントしていたが、報道に携わるものこそ、いい加減なコメントは控えてほしいものである。

大人の靴をはいて、親の七光りで国会にいるのは、真紀子議員のほうが上を行っているのではないか。質問は、よりよき日本の将来のために行うべきであって、私怨や鬱憤をはらすためのものではない。その場の議論のみで、真紀子節などとおだてるから、本人もますますその気になり、結果日本がいつの間にか駄目になって行くのである。

日本には、昔から「師恩に報いる」という言葉がある。師を乗り越えて初めて、師の恩に報いたことになる。親を乗り越えて、始めて親の恩に報いたことになりはしないだろうか。

田中角栄氏は、あくの強さはあれども、日本を代表する政治家の一人だった。真紀子議員が、目指さなければならないのは、その親の背中ではないだろうか。親は何を語り、何を子供に託したのか。その思いも受け継がず、ただ個人の恨みを爆発させるのは、国を導く人としての適格者とはいえない。

今、国が抱えている問題は何なのか。それを解決していくために、質問するのであれば、必然性がある。しかし、今回の国会討論は、余りに本筋を外れた、重箱の隅をつつく、小姑のいじめのような討議に過ぎない。そういう意味では、まず人のことを云々する前に、自分が外務大臣であった時に何をしたのかの反省をすべきではないだろうか。

本当にこれで国を導く場といえるのだろうか。もっと本筋を捉えてほしい。

また経営者は、ある情報を手にしたときに、どれだけ正しい判断を出せるかで、その後の会社の行方が左右されてしまうのである。人のコメントを鵜呑みにすることなく、真実を見抜く目を普段から養うことの大切だ。今流されている報道は、必ずしも正しい判断を引き出しているものではない。しかし、こうしたコメントは、いつの間にかそれが正しいことのように受け取られがちである。だからこそ、自らの眼で見、自らの耳で聞き、自ら判断することが大切なのだ。

経営者でも二代目の人はたくさんおられると思う。まず、親の心を受け継ぎ、その背を目指すこと、そして人生の本番は、何らかの形で親を乗り越えることを目指してほしい。

11月18、19日に宿泊研修がある。テーマは「人生の設計図の描き方」だ。

親を乗り越え、世の中に貢献するために人生の設計図を描いてみようではないか。

本物は、時間をかけてでも、育てなければならない。『大志塾』そしてその先の『国家経営塾』で、本物を育てていきたいと思う。

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2006年10月 5日 (木)

視点を変えれば物事の見え方が変わる

同じものを見、同じ話を聞いても、人によって見え方や感じ方はすべて異なる。

 「心ここに在らざれば、見るものも見えず、聞くものも聞こえず」と昔から言われているが、なぜこんな差が出るのだろうか。

 それは俗にいう頭がいいとか、悪いとかの差ではない。その人がどんな目的を持って、物ごとを見ているかの差である。ただ漫然と物事を眺め、日々を過ごしているのは、電車の窓から通り過ぎていく景色を見ているに過ぎない。

 まずは自分の目を開くことである。活眼を開くというが、その一番の秘訣は「何の為に、それを行うか」という目的意識を持っているかどうかである。その目的次第で、同じものを見ても、見え方、感じ方は変わってくる。

そして最も大切なことは、それを実際に行うことである。どんなにいい考えであっても、行わなければ絵に描いた餅にもならない。実践の中から学ぶものが多いことを知るべきである。このことも実践の体験の中からこそ会得するのである。

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2006年10月 2日 (月)

躍進の道しるべ

大きく躍進するというと、普通は自分自身の成長、自社の繁栄を願って、自分中心に考える。大志塾でいう躍進は、もっと大きな視点で捉えていきたい。

 自社の繁栄を望むならば、取引先、顧客あるいは社会の繁栄を目指せ。社会の繁栄を望むならば、国家の繁栄を目指せ、国家の繁栄を望むならば、地球全体の繁栄を考えよ。

 つまり自分が望むものより、せめて一回り大きなものの繁栄を考え、それに向かって進むことが躍進の道に繋がるのだ。

 自社の繁栄だけを考えていたのでは、自社の繁栄すらおぼつかないことになる。

まずはその気になってみることだ。躍進の元は、本当に目の前にある。

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2006年10月 1日 (日)

若手経営者セミナーのご案内

 この度、志のある経営者を集め『大志塾』を開催することと致しました。開始は、来年の四月から一年の予定で、毎月一回のセミナーを十回と、二泊三日の合宿による宿泊研修を二回、これを前期と後期に分けて行い、経営者の魂を磨くことを中心に、経営という立場から日本を蘇らせる人材を育てることを目的として行います。

 それに先立ち、11月18日(土)と19日(日)に、宿泊研修を行うことと致しましたので、ご案内申し上げます。こちらの内容紹介・申込書をご覧いただき、奮ってご参加ください。

 四月からの『大志塾』は、さらに政界・財界において、これからの日本を背負って立つ人材の育成を目指す『国家経営塾』へと発展させたく考えています。したがって、『国家経営塾』では、この大志塾の塾生から選考する予定です。

 

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