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2006年10月31日 (火)

社会全体が、いじめの構図

「いじめを苦にしての自殺」という事件が相次いでいる。しかし「いじめ」は学校だけでなく、今いたるところで行われている。

 まずはテレビの報道、確かにいじめを放置した学校や校長に多大な責任はあるが、何か事件が起きたときに、攻められ追い回され、まじめな人ほど、次に自らの命を絶つまでに追い込まれるのではと懸念していたら、本当に校長先生が自殺してしまった。

また、自殺をした女子中学生の遺書や周りの事情から、いったんはその父兄に「いじめだ」と謝罪しながら、翌日は「いじめだとは言えない」とか、「いじめが自殺の原因とは言い切れない」とか、他からの影響を配慮したにせよ、煮え切らない態度は、不信感を持つことになる。そういうことが、生徒にしても先生を信じきれないことになってはいないだろうか。

 学校でのいじめを云々する前に、大人が、まずくだらない手本を見せないことだ。子供は何もなくていじめに走ったりはしないのだ。大人の社会に、いじめの手本があり、子供は、それを繰り返し見聞きしていることを忘れてはならない。

そして国会の場、「ここが、いじめの原点か」と思わせるほどの陰湿さ、はしたなさ、ただ相手を攻撃するだけの態度、国政に関係のないような質疑応答、これらは言論に勝っても何の国益にもならず、いじめの典型ではないか。こうした場面を国民の前に見せつけ、若い学生諸君や生徒に見せている以上、知らず知らずの間に、いじめの土壌を培っているのではないだろうか。

昔から、「上のおこなうところ、下またこれに習う」のたとえの如く、まず国会議員から襟を正すべきである。汚職であろうと、政治献金であろうと、秘書給与であろうと、次の選挙で当選さえすれば禊を終えたとすること自体が、おかしくはないか。国民の範となれないような者は、議員たるべきではなかろう。

人は、いつ攻める立場から、攻められる立場に変わるかわからない。自分の意志でなくても、一瞬の不注意が大事故に繋がることもある。私も、ある所でいわれのない非難を受け、「罪人は、人の言葉で作られる」と感じたことがある。「大声で、また数多く発言した方が勝ち」といった風潮だ。「沈黙は金」という格言も、今や死に掛けているようである。

 何かことが起きると、よってたかっていじめる社会をまず変えていくだけでも、世の中は変わると思う。マスコミも、真実を報道するという名のもとに、相手を追い詰めることだけはやめてもらいたい。人の生命は、何よりも尊いのだということを忘れぬように。

そして、どんなことがあっても味方になってくれる存在が、本当は親であってほしい。家族であってほしい。そして教師であってほしいと思う。

それがいじめの構図の中で、乗り切れる大きな支えになるからだ。 間違っても、最後のとどめをさすようなことだけは、したり言わないで欲しい。

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