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2007年1月30日 (火)

流されるか、踏みとどまるか

仕事とは、人の健康に何らかの貢献をするものであると述べた。

自分の仕事を見直して、いかがだっただろうか?

 

それが、人の心や健康に害があると知りつつ、「得意先から回ってくるものだから、仕方ないんだ」と言いたいものもあるだろう。しかし、そこで「金のためには仕方ないじゃないか」とそのまま流されるか、「自分が本当にしたい仕事はこうではない。いつかこのような仕事をする」と目標を立てて過ごすのとでは、人生の大きな差になって現れてくる。

目標は、自分の行き先を決めると言っても過言ではない。

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2007年1月29日 (月)

現状維持は、安全か

人はそのままだと現状維持を望み、安易なそして安全な道を進みたがる。

しかし変化の激しい現代、現状維持を望むことは、かえって衰退の道を歩んでいることを知るべきだ。決して安全な道ではない。

如何に時代が変わろうとも、変えてはならないものを、中心の柱にすえながら、時代と共に変えていくもの、工夫していくものを常に追い求めていくことが大切であり、躍進の道しるべには欠かせない原則の一つでもある。

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2007年1月28日 (日)

経営者は、自分の健康に投資せよ

経営者の中には、自分の健康よりも事業が大事という人が多い。

社長の健康は、その会社の運気にも関係があることをご存知だろうか。

 欧米のエリートは、どんなに忙しくても自分の時間をしっかりと確保するという話を聞いた。中には、分刻みでスケジュールが入っているにもかかわらず、一週間に二回「この二時間だけは絶対にアポイントを入れるな」と言う人もおり、スポーツジムに通う時間を確保しているという。それも徹底していて、本社からボスが来るときでもその予定を変えることをしなかったそうだ。

 日本人の感覚では、「そんなバカな」と思い、また到底実行出来ないと思うであろう。

しかし、ほとんどの人が半病人、健康に不安を抱えて日々薬漬けになっている現実、また長年身体の悲鳴を無視し続けて、その疲れが限界に来たときに、突然倒れてしまう実態を如何受け止めるのか。

経営者は、自分の健康に投資すべきである。健康な身体に健全な精神が宿るというが、それだけでなく、健全な判断も下せることになる。

疲れがたまる前に、残さずにそれを押し流してしまうことで、どれほど仕事の効率も変わるか、長い眼でその差がいかほど大きなものかを考えてほしい。

 出来れは疲れを溜めないだけでなく、より積極的に自分の身体の中のめぐりを起こすことを実行してほしい。血の巡り、気のめぐりをよくすること、呼吸法などである。その投資は、アスレチックや薬ではない。いい水だ。

 人の健康は、身体だけではない。それが証拠に、強いストレスがあると、てき面に食欲が無くなるし、よるねられなくなったりするからだ。場合によっては、ノイローゼになったり、身体に変調をきたすことすらある。

身体の七十パーセントを占めるという水分を採るには、いい水を飲むことである。私も、毎日富士山の伏流水と言われる水を飲んでいる。最初は水がおいしいという感覚で飲んでいたが、三月ほどすると、自分の体内が変化していることに気がついた。身体が軽く、頭が冴えているのだ。やはり体内の七十パーセントを占める水は大切である。

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2007年1月27日 (土)

・・が無ければ、どうなるか? 

自分の仕事の本当の役目を知ることは、意外に大切なことだ。

自分の仕事の役目がわからないときには「・・が、なかったとしたらどうなるか?」と考えてほしい。たとえばごみの清掃車の人、毎週ごみを集めに来ることがなくなったらどうなるか・・

なんでもないことの様でも、大問題だ。3Kなどと言われ、一見きれいでない、そしてかっこよく見えない仕事が、なくてはならない大事な役目を持っている。

反対に、サスペンスなどのテレビドラマがなかったとしたら・・どうなったであろうか?

今は、信じられないほど連日殺人事件が報道されている。大人だけでなく小学生までもが、簡単に友達をナイフで殺してしまう時代になってしまった。連日のサスペンスドラマ、殺人ドラマが、人の心に何らかの影響を与えていることは間違いない。殺人教科書がなくなったら・・今起きている悲劇の何分の一かは、なくなるのではないだろうか。

皆さんは、「自分の仕事がなかったとしたら・・」と見直したとき、どうだったろうか。無くなって世の中が困るものであれば、どんなに地味なものであっても、誇りを持ってよいと思う。しかし無くなったほうがいいものだとしたら・・どう方向転換すべきか、考えてほしい。

たとえば、サスペンスドラマの製作者であれば、人の心を和ませる、家族の絆のようなドラマを作ることを考えてはどうだろうか。今、人の心がすさみ、母の愛も知らないで育った人が増えている。家族のぬくもりも知らず、心をこごえさせている人が多い中、ドラマという架空の中だけでも、家族の暖かさがあってもいいのではないだろうか。

殺人ドラマが日常化されてから、十何年かたった今、ドラマと同じことが現実に起きている。ならば家族の暖かさを中心としたドラマが普及されれば、何年か後にはそれが現実の世界に広まっていくと考えていいのではないだろうか。人は、冷たいものより、温かいもの、ぬくもりが生活の土台にあって、より良い仕事ができるのではないだろうか。

こういう暗くなるようなニュースは、むしろ報道しないで、小さな話題でもいい、ささやかな幸せでもいい、みんながホッとするような、あるいは笑顔がこぼれでるような、そんなニュースを専門に流すテレビ局は出来ないものだろうか。

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2007年1月25日 (木)

一つの町おこし

伊勢神宮の近くに、「おかげ横丁」がある。すべてが木造の建物で、たくさんのお土産やさんやいろいろな店が軒を連ね、そこにある郵便局まで同じようなつくりになっていて、日本の原風景のような懐かしさを覚える町並みになっている。

観光スポットとしても、全国で注目されるほど集客力のある成功例として見られているが、偶然にその成功秘話に触れる機会があった。

その中心的な役目を担ったのは、伊勢名物の「赤福」の社長さんだそうだが、町全体を昔ながらのつくりにすることを企画し、昔のようにたくさんの参拝帰りの人に立ち寄ってもらえる魅力あるおはらい町づくり(おかげ横丁)を目指されたという。

当時、伊勢神宮に団体で参拝しても、おかげ横丁には立ち寄らずに、バスは二見や鳥羽に行ってしまう。おかげ横丁は閑古鳥が鳴き、廃屋が出来、なんと一時は、一日に一箱のお土産が売れるかどうかというところまで、客足が遠のいた時期があったという。

赤福の社長さんは、自分の店の集客だけを考えたのではなく、町全体として人が集まってきたくなる場所作りを考え、市に掛け合い、さらには反対する町の人たちの前に、自分ひとりでもすると当時の赤福の年商に当たる金額である百何十億円かのお金を借りてでも推進されたという。

この話からは、経営に関する数々の教訓が秘められている。

一つには、物事の始めには反対がつきものであるということ。いいことであっても、必ずしも足並みはそろわない。それを推進していくには、単なる利を超えた信念が必要だということ。

もう一つには、自社の繁栄を望むなら、それよりも一回り大きなものの繁栄を考えること。これが躍進の道に繋がる原点であるが、その実例であるということ。

現在買い物の形態は、スーパーなど大型店舗に押され、町の小売店は青息吐息のところが多いが、自分の店だけ、そして現状維持だけ考えていたら衰退し、潰されてしまうところでも、町全体の繁栄から考えたときには、スーパーでは決して出来ない町おこしが実際に出来るのだということ。小売店だけでなく、企業でもこの考えは、繁栄の原則である。ただ企業の場合は、町おこしという見方とは少し違う視点が必要になる。

おかげ横丁という街づくりの詳しい話は、「伊勢人」という雑誌の154号にのっているので関心のある方はお読み頂きたい。

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2007年1月24日 (水)

人頼みでは、物事は動かない

新しく物事を動かす時には、はじめの力が最も大切であり、そして大きな力が必要である。

実際に動きが起きたときには、色々なところから協力の手も挙がれば、力も貸してくれるだろう。しかし、はじめから人頼みにしては、何一つ物事は動かない。

「他力本願」という言葉があるが、物事を動かすはじめには、役に立たない言葉であることを知るべきだ。

「自分一人でも行う」、そのくらいの覚悟で、はじめは流れを変えていくことが大切だ。

まず何を変えようとしているのか、どう変えようとしているのか、これを明確にすることだ。人にではない。自分自身に対してである。

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2007年1月23日 (火)

逆風を突いても進む時

物事を正そうとする時、何らかの改革をなそうとする時には、必ず反対するものにぶち当たる。追い風に乗ったり、潮の流れに乗って前に進むのと比べ、はじめは潮に逆らって進むような、漕いでも、漕いでも前にいかないもどかしさがある。

しかし、今ある流れを変えようとするから改革なのだ。今の流れに流されるのでよければ、改革の必要もなければ、変化も生まれない。

個々の業種や、個別の動きで見れば、その時の流れに乗っていてより飛躍と発展につなげることも大切であり、可能である。しかし世の中全体としてみたときには、むしろ流れにのって進むことは大変に危険であることを、肝に銘ずるべきだ。

どこかで踏みとどまる。そして見つめなおす。そして何が必要か、何をしなければならないのかが見えてきたとき、ためらうことなく前に進む勇気が必要ではないだろうか。

逆風を突いても前に進む。今は、その時なのだ。はじめは困難なように見えても、まず一歩踏み出すべきである。踏み出してこそ、起死回生の力と出会うことも出来るのだ。

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2007年1月22日 (月)

不二家の消費期限切れの問題について 

不二家が、消費期限切れの材料を使い、国の基準を大きく超えた細菌が含まれた製品を出荷したとして大きな問題になっている。食は、命の原点であり、見逃すことは出来ないが、この事件だけ見るのではなく、「食品会社の原点を忘れた」と連日のようにマスコミで報道されているその「原点」を考えてみたい。

いったん失った信用を取り戻すのは、それこそ食の原点に戻り、通常の何倍もの努力、改善が必要となる。「このくらいいいだろう」が、引き起こした問題を軽く考えるべきではない。

しかし「原点を忘れた企業」は、不二家だけだろうか。「食の原点」で言えば、自社の製品は絶対に家族に食べさせないという食品会社の重役、製油会社の社員、製造過程を本当に知ったら、とても食べることが出来ない食品がどれくらいあることか。

「建築の原点」を忘れたから、姉歯氏に代表される耐震構造疑惑が生まれ、阪神大震災12年目だか、その際の高速道路やビルの倒壊の中には数多くの人災、手抜き工事による悲劇が生まれた。

「運輸業の原点」を忘れたから、一昨年の福知山の脱線事故に代表される大惨事が生まれた。

個々に見ると「なんとひどい人たちだ」と攻撃の的にしかねないが、「原点」とは何か。

どの業種でも「命」である。食の原点は「命を養い、活力の元となる」、建築の原点は「一家団欒の潤いと安らぎの場であり、その究極は命の保護」であり、運輸の原点は「命を乗せて運ぶもの」ではないだろうか。

報道しているマスコミは、「マスコミの原点」を忘れていないだろうか。政治家は「政治の原点」を、教育は「教育の原点を」それぞれ忘れているから、今の世の中の狂いとなったのだ。

物事を正すときには、原点に戻ることが原則だが、その原点そのものが何であるのかを知らない人が多すぎはしないだろうか。それは少なくともはっきりと捉えて進むべきである。

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2007年1月21日 (日)

病気の症状は、氷山の一角

病気、特に命に関わる病気になったときには、そこに現れた症状、つまりお医者さんの指摘している結果は、氷山の一角と見るべきである。

病気になるには、未病といわれる期間が必ずあり、病として表面に出るまでに十分に育った病の根、病根はそれよりも何年も前からあると思わなければならない。

その病気の根を断ち切らねば、手術で切り取っても他のところに必ず出てくる。薬で抑えても、段々効果がなくなってくる。

「病気の根」は、別の見方をすれば「健康の根」でもある。自分を支える根っこが、どちらの根だろうか。いい根からは、いい茎が伸び、いい花が咲き、いい実が実る。

根に一番効くものは、食生活であろうが、生活の習慣、心の持ち方はどうだろうか。身体の悲鳴を無視しても、暴飲暴食にふけった生活、または偏った食事をしてはいないだろうか。人を恨み、陥れるようなことを考えてはいないだろうか。それは根を弱めたり、腐らせる元だ。

ストレスにさらされていない人はいない。それに加え自分を支える「根」には、仕事、住んでいる土地、家、先祖など意外なほどたくさんある。

それらがいくつも影響して、今の自分の健康、あるいは不健康を作っているのだ。

病気を治すと思わずに、「病の根を絶つ」、そして「いい根を育てる」という気持ちで臨むことが大事ではないだろうか。

そうすれば、常に「快食、快便、快眠」の健康な生活が送れるようになるのだ。

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2007年1月20日 (土)

時代の加速

現在報道されている殺人事件や、いじめ、虐待などは、十年前とは比較にならないほど頻繁に起り、そして残虐になってきている。物事は、いいほうにも、悪い方にも、あるところまで進んだときには、より加速する性質を持つ。

殺人事件を見ても、本年の年頭より殺人の上死体をばらばらにする事件が次々と起こった。一つ一つの事件を見ただけでも、目を覆いたくなるものが多いが、こうした事件を何年か追いかけてみると、人の命の軽さ、人の尊厳というものの実体を見失った言葉だけの空虚さによって、殺人の数も年々増え、それも昨年末より本年に入ってから、より加速度的に増えている。

自然環境も同じだ。初めの頃は排水を垂れ流しても、自然の力のほうが勝っていたために自然浄化が出来たけれども、ある限度を超えたときに、魚に奇形が生じたり、色々な形で人の健康にも大きな影響を及ぼすところまで来て、ようやく環境問題に関心を持つようになった。しかし、すでにわれわれの想像を超えた地球環境になっているのだ。

大気圏の問題や地球の温暖化にしても、やがて一気に環境破壊の波が押し寄せてくる時代になりつつある。国益がどうのといっている時代ではないのだ。各国の問題ではなく、地球全体の問題として、全人類が共通の問題として考えなければならないのだ。自分で自分の首を絞める・・そういう時代になってはいないだろうか。

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2007年1月19日 (金)

自分は、時代をつなぐ大事な存在

今の世の中を、このままでよいと思っている人はほとんどいないであろう。自分がこのまま、生涯をかけて仕事に打ち込み、その成功を収めたとしても、わが子の世代に本当の幸(さち)を残してやれるだろうか。

人の幸せは、健康であること、対人関係に恵まれること、打ち込める仕事があること、そして物質的な成功など、色々な角度からの観点があるが、自分たちの住む土台となっている社会そのものが腐りきってしまった時は、いかがであろうか。

その社会に住んでいる以上、自分だけ、あるいは自分の家族だけはその影響を受けないで、平穏に過すということなどは出来ないのだ。

今、自分が、なすべきことは何なのか。子孫に残せるものは何なのか。人は誰もが、時代を繋ぐ大事な存在なのである。親や祖父母、さらには自分のルーツである先祖から、自分を通して、何を子孫に繋ぐのか。何か一つでもいい、生きる証としてこれを成し遂げた、これを次の世代にといえるものを、目指すべきではないだろうか。

「自分一人くらいが頑張ってみても、どうせ世の中なんか変わりはしない」と諦める人が多ければ多いほど、世の中は加速的に悪くなってしまうのだ。一人ひとりの力は微力でも、みんなが「せめて自分だけでも、次代のために、子孫のために頑張ろう」という思いになったとき、世の中自体が変わるのだということに思いをはせていただきたい。

人は誰しも、そうした役目を持ってこの世に生まれてきているのだ。たとえそれが、ねじ釘一本ボルト一つの小さな役目であっても、その役目を果たさなければ、本来繋がるべきものが繋がらず、ばらばらになってしまうのだ。世の中は、こうしたことの寄り集まりになって成り立っているのだ。

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2007年1月14日 (日)

選挙は、本当に必要か

 もともと民主主義として、国民の代表者を選ぶといいながら、とても今の選挙で本当にその器を持った人が選ばれているとは思えない。

少し前のことになるが、東京都知事に青島幸雄氏、大阪府知事に横山ノック氏が選ばれたこと一つとっても大都会の人間が如何に無責任で、いい加減な投票をしているかわかるのではないだろうか。

 青島さんにも、横山さんにも個人的にどうこうはないが、東京都知事、大阪府知事となれば、見方によっては大企業の社長以上の責任があるはずだ。

 しかしたとえばトヨタ自動車が、一日社長ならいざ知らず、社長にこうした人選をおこなうとは到底考えられない。課長はおろか、係長にもすえないのではないか。その考えられないことが、選挙で実際におこなわれてしまうのだ。恐ろしいとは思わないだろうか。

選挙のあり方、政治家の選び方も、見直さなければならない時が来ている。世界中でおこなわれている方法とはいえ、社長候補が新入社員まで愛想を振りまき、裾野の数を集めた人が当選する。人気投票で安易に選んだツケは、自分たちが払わなければならないのだ。

 

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2007年1月13日 (土)

百年の計は、あるのか 

 『国家百年の計』と言われるが、残念ながら今の政治家の中にこの目を持っている人がいるようには思えない。また仮にその目を持った人がいても、今の政治の仕組みの中では、実際には出来にくいのではないだろうか。

物事は十年計画、あるいは百年先を見るとして進めなければならないこともあり、特に国の経営にはそれが必要だか、何年かごとに選挙があり、そのたびにそちらに全力を挙げなければ自分の議席すら危なくなる現状では、大局から物事を眺めよというほうが無理だ。

しかしこれからは、国家経営としての目が必要で、それが出来る人がこれからの日本だけでなく、世界に必要ではないだろうか。

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2007年1月10日 (水)

・ 情報の洪水に流されないために

インターネットの普及などで、今までとは比較にならないほど情報を集めることも、買い物をすることも、通信その他すべての面にわたって便利になった。

 ネットの世界を生かしてのいろいろな展開には、今後も大きな可能性があることは誰もが認めていることだ。

しかし、インターネットだけでなく、現代のような情報の洪水の中で、その渦に流されず、適確な判断を下すためには、身につけておかなければならないことがある。

 

 情報が足りないということも、判断には困るが、洪水のように流される情報過多の中から、真実を見分けることは、さらに大変なことである

 真実を見分けるためには、目を曇らせないことだ。こんなことは当然と思うかもしれないが、

案外「・・だろう」「・・に違いない」という「先入観」、さらには「欲得」という色眼鏡で物事を見ていることが多い。

 より情報が加速し、便利になった反面、判断の是非が大きな意味を持つことになる。曇った鏡では、真実が写らない。瞬間の判断は、知識ではなく魂でするのだ。したがって、その力を養うことに尽きる。

 学校や今までの社会の中では、「知識」の増やし方は教えてくれても、考える力を養ったり魂の磨き方を身につける機会は、皆無だったのではないだろうか。

 企業経営にとって大切なことは、先見性・決断力・統率力である。この決断力の前提としての判断を誤ったのでは、意味がない。

 氾濫する情報の中から、正しい情報を得ることは、至難の業である。

四月からの『経営者セミナー』では、こうしたことも織り込んでいく予定です。

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2007年1月 6日 (土)

確実に地に足をつけて進むか、泡の如くに消え去るか

人は誰でも目先に利益に弱いものだ。しかしそのことだけにおぼれ、「金も地位も手に入れた」かのように見える人が、ギャンブルのように一時的には栄えても、そのとき限りの泡のように消え去る姿を今までにも数多く目の当たりにしたはずである。

 昨年は、最もよいその例があった。時代の寵児といわれてもホリエモンや村上ファンドのようにあっという間に消え去ったが、ただ檜舞台から姿を消しただけではなく、犯罪者として裁かれる立場に身を置くことになった。

 金のためなら犯罪も辞さない。その典型がバブルであった。欲にかられて人の住んでいる家すらぶち壊して突き進んだが、その行き過ぎによってバブルははじけ、まさに泡の如くに消え去ったのである。その背後には、猫も杓子も金・金・金と欲の皮を突っ張って、さらにその奥には銀行や証券会社が金を貸し付けて煽ったのである。いわば犯罪の巣窟であるその銀行や証券会社は国費を持って保護し、営々と苦しみながら働いて、そうしたバブルなどには縁のなかった中小企業は、今でもワーキング・プアーのしわ寄せを食っているのである。政治のあり方自体がおかしくはないだろうか。

 国家全体では、いざなぎ景気よりも長いと自負しているようだが、国民の生活はますます苦しくなるような方策ばかりでは、いずこに為政者としての責任と誇りがあると言うのだろうか。

国民あっての国であり、領土あっての国である。この両面から見ても、拉致の問題に手こずり、北方四島や尖閣諸島や竹島問題などの解決を延ばしに伸ばしてきたことの責任は重い。

企業においても、単に目先のことだけに心奪われて、その場限りの安易な祈願をするのではなく、地に足をつけた堅実な道を歩んでいただきたい。それには、人のために益するものか、社会のために益するものか、国家のために益するものか、そして何よりも正しいものかどうかの検討が必要であろう。企業は利益を挙げなければならないが、それは結果において巡ってくるもので、利益のみを追求すべきではない。

「困ったときの神頼み」も、ただ神に頼めばあとは神任せでは、なかなかに願いは叶いがたしである。自分の願いに対して、どれほど真剣に努力するかどうかを見て、神もまた応分の力を加えて下さるのである。願い事をすれば後は寝ていても叶えてくれるでは、努力する者等いなくなってしまう。いわば神と人との共同行為であることを忘れてはならない。

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2007年1月 5日 (金)

神明に誓っての新年か

 一月四日は、毎年歴代総理が伊勢神宮に参拝する日である。今年もテレビで安倍総理の参拝を報じていたが、図らずも今年は民主党の小沢氏も日を同じくして参拝が報じられていた。今年は参議院戦の年でもあり、どちらからも同じ祈願では、神様もお困りになられるのではないかと思いつつ、改めて「人事を尽くして天命を待つ」そして「天地神明に誓って」という言葉の意味をかみ締める思いであった。

総理も民主党の党首もまさか個人の祈願ではあるまい。しかし、神前で神明に誓って恥ずかしくない参拝をされたのだろうか。

 形だけの参拝など、神には通じない。本当に国家を思い国民のことを思って、謙虚に神の力を頂いて国難にあたるという気構えが必要であろう。単なる挨拶や形式的な参拝で国家を運営する力など与えられるわけがない。

 このことは、企業においても同じだ。社長は、確固たる信念と真摯で謙虚な態度で初詣に参るべきである。しかしその前に、一年の計、十年の計、あるいは百年の計を胸に刻んでいるだろうか。それなくしてただご利益のみを求め、幸運の女神が微笑むのを望むのでは、単なる神頼みに過ぎない。人の上に立つ人こそ、「神明に誓って」といえる一年の出発をすべきである。

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