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2007年2月27日 (火)

物事は、どこから見るのか

物事を見るのに自分が高いところより、相手を見下ろす心で見たときには本当のものは見えてこない。「観音下座の業(かんのんげざのぎょう)」とも言われ、頭を低くして謙虚に物事を眺めたときに思いもかけない真実に出会うものだ。

また反面、いつも同じ高さから眺めていても、新しい着眼は生まれてこない。飛行機で一気に全体の景色を見渡すように、大局をつかむ目も大切である。

自分は今、どの目線から物事を見ているのだろうか、人と接しているのだろうか。人はともすれば一つの角度からの目線になりがちだが、多様な角度からの柔軟な目線を持つことは、思考も柔軟に開けてくる。


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2007年2月26日 (月)

貢献とは何か

社会貢献を考えない企業は、存在価値がないといわれる。ただ利益のため、儲けの追及だけで突き進んでも、一時はよいように見えても、必ずどこかで破綻をする。

しかし・・「貢献」とは何か。本当の意味で捉えているだろうか。貢献とは、個人に対しての貢献、ある地域、社会に対しての貢献、国家に対しての貢献、そして人類全体への貢献と色々幅がある。

自分は、どの範囲に対して貢献しようとしているのだろうか。

個人に対する貢献には、自社の従業員に対してのことも含む。一般に人は、金銭で幸せが買えると思いがちで、とくに経営者は労働環境や給与面を考えれば、それで十分だと思いがちである。

しかし本当の貢献を考えるならば「人の本当の幸せは何なのか」という原点に一度帰り、考えてほしい。金が満たされても、物があふれても、それだけで人は幸せにはなれないのはなぜかと。

「不安がなくなること」・・「健康に対する不安」「老後に対しての不安」「自分の生き方に対しての不安」・・・裏を返せば、人の本質を良く見つめ、また時代の流れの中で、人の「不安を取り除くことが出来ること」が、大事な仕事の着眼点であり、本当の意味の貢献に繋がる目を開いていくことになるのではないだろうか。

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2007年2月20日 (火)

教育改革 その2 人生の役に立たない教育は、時間の無駄 

今のような知識偏重の教育と、それを前提とした「知っているか、知らないか」の試験では、社会に出てからも役立つ人にはなりにくい。

 一つの例を挙げてみよう。わが国は昔から寛容の精神に基づく『和を以て貴し』となす国柄である。聖徳太子が唱えたことでも知られている。この伝統に基づいて、大自然の声、神道を中心としながら、仏教も儒教も受け入れて、日本独自の文化にしながら発展させてきたのである。

 ところが、現在の状況はどうであろうか。経営者と労働者つまり労使の関係は対立関係と捉え、政治においても与党と野党は対立関係と捉えて、互いに足の引っ張り合いをしてはいないだろうか。

 異国のように、相生相克の対立概念や、一神教のように「自分の信じる神を信じている者は味方だが、そうでない神を信じる者は敵だ」とする発想を、そのまま持ち込んではいないだろうか。

 どこに伝統としての寛容の精神と和の心が活かされているというのか。この精神と心によれば、労使共に自社の発展のために力を尽くして発展させ、その結果としての業績によって、給与や賞与も後から満たされるということになるのではないだろうか。会社の内部において、互いに対立し、足の引っ張り合いをしていたのでは、到底発展・繁栄は望み得ない。

 政治においても、与党と野党が共に切磋琢磨して日本の国の発展のために尽くすべきであって、互いに相手の言葉尻や弱点を突きあう現状では、国民の信頼に応えることはもとより、国の将来さえ危ぶまれるのである。まして現状のように大赤字を累積していたのでは、本来なら誰も引き受け手はいないはずだ。会社なら当然破産である。

あれこれと言う前に、「もっと真剣に、真面目に国政に立ち向かえ」と言いたい。一個人が当選しようがしまいが、そんなことはどうでもいいことだ。私心を捨てて、公のために尽くす者こそが、政治家としての資質を持つものと言えよう。

 単なる知識ではなく、日本の伝統と精神に基づいて、その意味している本当の心や魂を受け取り、それに則っての政治や経営をして頂きたいものである。

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2007年2月19日 (月)

教育改革 その1  先生は、なぜ要るのか

誰一人「教育とは何ぞや」を論ずることなく、教育基本法の文字面を直して、教育基本法を改正したと言う。一体教育のどの部分をどう改正したと言うのだろうか。

 そもそも「教育とは何か」。「教育とは、教えることではなく、育てることである。育たぬ限り、教えたことにはならないのだ」と思う。また「何の為に教育するのか」と言えば、「生徒一人ひとりの個性を活かしながら、人格を形成するためである」と言えよう。言い換えれば、それぞれの分野において、「立派な人に育て上げる」ことである。

 この原点を忘れた現在のような教育なら、学校の先生などいらぬことになる。文部科学省は、各学年ごとのビデオを作製して、全国の学校に配布すれば、先生の資質云々の問題も解消されるし、生徒は何度でもわかるまでビデオを見ることが出来、先生の「時間がない。忙しい」という言葉も、残業手当の心配もない。

しかし、「先生は要らない」ということを言いたいのではない。今のような、知識偏重の教育なら不要だと言っているのだ。では、なぜ先生が必要なのか。それは「十人十色」と言われるように、生徒一人ひとりの個性は異なるのだから、その生徒の個性、特にその子の天命を見抜いて、その方向に進ませる必要があるからだ。

そのためには、直接生徒と接する現場の先生が必要なのである。したがって、生徒の個性や天命を見抜く力のない先生は、先生としての資格はないのだ。いわゆる「でも、しか」先生でも、サラリーマン先生でも困る。やはり先生は、聖職者でなければならない。たとえ一年間であれ、生徒の人格形成の一端を担う職業だからだ。

 したがって、現行のように「あなたの成績ならこの学校なら受かるよ」という進学指導は、根本的に間違っている。だから、せっかく高校に進学しても、「自分には合わない、面白くない」と言って、一学期で退学してしまうことになるのだ。

 むしろ「あなたは、こういう方向に向いているから、そちらの方向に向かっての学びをするといいですよ。そのためには、今のままではこういう点で難しそうだから、そこを重点的に補いなさい」というのが、先生の役目ではないのか。

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2007年2月16日 (金)

「吸うより、吐く」で起死回生

人は生まれてくるときに、「おぎゃあ」という産声を発する。そして「産声を発した子は、大丈夫だ」と言われている。このこと自体が、人生そのものをあらわしているのだ。最後に旅立つときは、「息を引き取る」と言って、『こくっ』と吸って終わるのである。

したがって、呼吸は『吸う』ことよりも、『吐く』ことが大切なのである。だから人生もそれに当てはめて、「まず自分が人のためにしなさい。そうすれば人様からもしてもらえるのだ」。「ギブアンドテイク」であって、決して「テイクアンドギブ」ではないのだ。

実際の呼吸においても、「吐ききったら、自然に新しい空気が入ってくる」と言われている。まさにそのとおりなのだ。

しかし、実際に『吐ききる』ことは、意外に難しいものである。やってみればわかるが、吐いても吐いても、まだどこからか空気が自分の中に入ってきて、身体のどこかに残っている感じがするものだ。

これは緊急に備えるための身体のもつ仕組みらしく、吐ききったと思っても、肺の中にはまだ何割かの空気が残されるように出来ているのだそうだ。

吐いて、吐いて、「もう駄目だ」というところに来ても、まだ吐ける。さらに「もう駄目か」というところに来てもまだ空気が残っている。

 経営で追い詰められてくると、どうしても相手の入金を「まだか、まだか」とせかされる思いになる。もちろん現金化できるのが早いほうがよいが、その前に自分の仕事として、今日を、今週を、そして今月をやりきることである。

つまり吐ききるほどに、仕事の中身として、「出し切る」ことに意を用いてはいかがだろうか。仕事の中身・工夫・そして誠意、時間の使い方等・・・ 

やりきりもしないで、「駄目だ」、「不景気だ」と人のせいにしていても、新しい空気は入ってこない。息を吸うのは、自分自身なのだ。社会のために、国家のために、吐ききってみてはどうだろうか。

仕事として「やりきって」いくとき、新しい空気、新しい力は、必ず入ってくる。

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2007年2月14日 (水)

早朝とひらめき

誰でも一日は、二十四時間と決められている。しかし、その使い方で、効率は大きく異なる。

一日の中で、もっともそれに適した時間があることをご存知だろうか。それにのって物事を行うと、何倍も早く物事を片付けることが出来る。

手作業では、何倍も早くというわけにはいかないかもしけないが、思考や企画・立案は、何倍あるいは何十倍も早く完成することも可能である。いわゆるひらめきと集中によってである。

朝は、特に早朝がその時間帯だ。日の出の勢いと言うが、躍進のためのひらめきが最も出やすい時間である。新しいことを考えたり、企画・立案するのに最適な時間だ。事業のひらめきも、この時間帯にひらめいたことは、成功の確率が高い。

よく朝早くに、ジョギングしたり、散歩をする人がいるが、もったいないことだ。特に経営者、人の上に立つ人は、そのひらめきが社運を左右することすらある。

私にも体験がある。原稿を書くのに、朝六時までに始めるかどうかが大きな鍵である。六時以前であれば、あっという間に十枚くらいは書き上げている。しかも時間は十分か十五分くらいである。次が八時までである。このときには七割くらいの減速となり、さらに十時までとなると、そのまた七割に減速する。そして十二時までがさらに減速するのだ。二時間刻みで、効率は落ちる。

朝廷とは、天子・君主が政務をとる所とされているが、平安の頃には早朝に出仕し、お昼には退出していたという。古人(いにしえびと)の知恵を、今一度活かすべきである。

経営者の三要素は、先見性、決断力、統率力と言われるが、その元のひらめきを得るのに、早朝は宝の時間でもある。

役人が深夜の会議などをするが、そこで本当に国を発展に導くひらめきが出るとは思いにくい。早朝会議をこそ実践して、国家の舵取りに誤りなきを期して欲しいものである。

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2007年2月12日 (月)

互いの力を倍化させ、推進していく 

仕事の性質によっては、一人でしなければならない仕事もあるが、人と組んで仕事をするときに、如何したら互いの力をより引き出し、出来れば倍化させることが出来るだろうか。

豊臣秀吉のエピソードを紹介したい。ご存知の方も多いと思うが、お城の壁の修理を三日間で行った有名な話だ。当時は戦国時代、日々を戦に明け、戦に暮れていた時代だ。そんなときに壊れた城の壁をそのままにしておくことは、即、敵に城を破られることにも繋がり、明日の命も保障されないことになるのだ。

そのときに修理に当たっていた奉行は、敵の回し者で、なるべく修理を長引かせるように命じられており、数週間たってもほとんど壁の工事は進展をしていなかった。秀吉は、それを見抜いて奉行にけんかを売った上、城主の織田信長に「自分なら、三日間で成し遂げます」と言い切り、出来ないときには「腹を切る」とまで断言してしまう。

秀吉は、後に関白とも太閤殿下とも言われるほどに出世するが、当時は皆から「サル」と呼ばれ、工事の棟梁や人足までも「こんなヤツの下で働けるか」と、サボタージュを決め込もうとしていた。

秀吉は、皆を集め「おまえたちは、ただ他人の城の壁を塗っていると思うだろうが、そうではない。この国の守りを築いているんだぞ」と話し、さらに「今、暮らしていかれるのも、城主様がいて、国を守ってくれているからだ。城を他の国に奪われ、国が無くなったときには、民は家を焼かれて、さまよわなければならないことになる。自分はそうした人たちをたくさん見てきた。皆の仕事は、その城の大事な守りを築いているのだぞ」と伝えた。

敵の回し者の奉行から金をもらい、秀吉の失敗を高みの見物で見てやろうとしていた棟梁たちも、目を開かれ、その後は夜も寝ないで、一世一代の仕事を皆で成し遂げたという。

ここで三日間でそれを成し遂げたのは、単なる利害ではない。もっと人を動かす琴線に触れたからではないだろうか。

この仕事の持つ意味、自分たちが働くことによって成し遂げられるものは、使命感に火がついたときに、人は何倍もの力を出せるのだ。

この話は、現代にも通じるのではないか。経営者は、常にそうした使命感を持たせることに意を用い、働く者もまた使命感に燃えて日々を過すことに心がけると、生甲斐や遣り甲斐に繋がるのではないか。その結果、企業の繁栄に繋がり、国家の繁栄にも繋がるであろう。

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 明日は『朝日を浴びよう』です ***

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2007年2月10日 (土)

積み残しを片付けるには

今日する仕事は、明日に持ち越さないことが大事であるが、残念ながら仕事でも片付けでも、押せ押せで溜まってしまうことがある。

ちょうど毎日の新聞、その日の分だけ見たり、持って歩くのは持っていることすら気にならないが、それが一週間、一ヶ月と溜まるとそれを見るのも大変、まして持って歩くなどその重みだけで動きまで制限されてしまう。そんな状態になっていることがある。

それでは益々仕事の効率は悪くなり、自分で自分の首を絞めてしまうことになりかねないが、そういう積み残しがある場合には、一度にすべてを行おうとせず、いったん今までのものを脇におき、現段階からの出発に切り替えて進む割り切りも大事だ。そしてそこからのことを完全に実行することに努め、それが出来るようになってから、少しずつ遡って以前の遅れを取り戻すようにすればよい。

今どうしても手がけなければならない仕事と、いったん新聞を横に置くように脇における仕事を分けるだけでも、仕事の効率は変わるのではないだろうか。

 理想的には、明日一番でする仕事のみを机の上に出して他はすべて片付けていく。そして朝すぐに取りかかれるようにしておくことが、一日を効率的に使う秘訣でもある。

 整理整頓が苦手な人は多い。かくいう私もその一人だが、心の整理整頓に繋がることでもある。

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2007年2月 9日 (金)

毅然とした姿勢の中に芯を通す

もろもろの報道を見ていると、日本の政治家をはじめとして、何か外国の顔色を伺い、ご機嫌取りがいい事と誤解をしているように見受けられることが多い。

国連の常任理事国にしても、アメリカに次いで多額の資金を出していながら、日本の立場は国連の場でも平然と踏みにじられている。見直さなくてはならない時が来ているのではないだろうか。

見直し方には、二通りある。金の出し方が間違っているのではないか、つまり生きた金の使い方をしているのだろうかということ。今までの海外援助をみても、それを日本が出したと相手の国の人に届いていることは少ない。金さえ出せばそれでいいという姿勢に、問題がありはしないか。

もう一つは、日本の国自体の財政が、赤字国債をはじめ限りなく財政破綻の道を突き進んでいるのだから、今の国連で常任理事国を目指さずに、国連やODAなどに出す拠出金を削減することである。

金の出し方には、意外に人格が出る。国で言えば国格が出るものだ。出したことさえ相手に伝わらないような金の使い方は、金の値打ちも、国民の汗も、さらには相手の国の本当の発展も考えていないことになるのだ。

国家の品格という本が出ているが、毅然とした姿勢の中に筋を通していくべきだ。

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2007年2月 7日 (水)

いい人材、求人の際には

同じ日に、二つの会社で、共に求人の希望を持っている人が来た。一方の会社は、その翌日と、翌々日に次々と人が面接に訪れ、あっという間に何人かの人が決まり、一週間もすると十年もいる人のように会社になじんでくれたという。

一方は、人が入ってもすぐにやめてしまう。残念ながら三ヶ月たっても気に入った人に出合えない。「今の人は、わがままだからでしょうか」「給料は、世間並みなのに、なぜでしょうか」と問われた。

なかなかいい人材に出会えない時に、給与をはじめとする待遇はもちろんだが、「どういう思いで求人を出しているか」一度見直してみてはいかがだろうか。たいてい「仕事はある。それを行う人手が足りないので、何とか求人がうまくいきますように」と思って求人を出してはいないだろうか。

「それのどこがいけないのだ」と思うだろうが、まずは相手の立場に立って見た時どうであろうか。当方では、常々「相手のために」、「相手の立場に立って」考えることをお勧めしている。

話は飛ぶが、結婚も同じことだ。「誰かいい人はいないかな」、「早く結婚したい」と言う人ほど、なかなか結婚できない。

「人を求める」ことでは、根本的な考えは同じである。ただ会社で「人手がほしい」、結婚で「家を片付け、食事を作り、子供を生んでほしい」だけでは、その思いにおいて柳沢大臣ではないが、子を産む機械となんら変わりはない。

人を機械扱いして縁を求めたときには、機械以下の人しか来ない。その時間だけいやいや働く。金さえもらえれば、見えないところで上手にサボる。気に入らなければさっさとやめる。

求人の際には、「この求人で、自分の会社と縁を持つ人を幸せにしてあげたい」が根底にあり、その上で「この仕事を共に発展させ、行ってくれる人に来てほしい」と願うのが大事ではないだろうか。結婚も同じである。人と人との出会いは、あくまで縁である。そしてそれは双方の思いが合致して生まれるものなのだ。

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2007年2月 6日 (火)

柳沢大臣の、「女性は子供を生む機械」発言について

柳沢大臣の「女性は、子供を生む機械」発言を巡って、色々な議論があるが、私見を述べてみたい。

政治の世界では、「言葉は、命」というように、失言問題は大きく取りざたされる。

柳沢大臣も、厚生労働大臣として明らかに不適格である。少子化問題の解決法として述べたというが、人の生命の誕生を機械としか捕らえられない人が、「厚生労働」という「人」に直接関わる役職としては不適格なのだ。否その前に政治家としても不適格だ。営々と積み重ねてきた金融担当大臣としての功績も、一瞬にして吹っ飛んだではないか。人が無意識に発した言葉は、本心である。今更「職責を全うしたい」と言っても、すでに適格を失っているのだ。

しかし、その為に大事な予算審議を欠席し、罷免を求める野党は、政治家として適格と言えるのだろうか。国会議員は、特別職とは言え公務員である。公務員には職務専念義務が課せられているはずだ。職場放棄をするなら、自らが辞職するべきだ。そのようなものに、国民の税金を払う必要もない。幼稚園児がただをこねるようなことしか出来ないのなら、さっさと辞めればいいのだ。こうしたことが長年行われてきたから、政治家にとっては常識かもしれないが、国民からすれば非常識だ。「まじめにやれ」としか言いようがない。

少なくとも罷免要求と、予算審議は別個の問題だ。国民生活に直結する予算審議には出席して審議の上、堂々と退陣要求をすればいいではないか。少しも大人の視点を持っていないと言わざるを得ない。

また問題の発端は、安倍内閣の組閣そのものにある。この内閣は、安倍氏を応援してくれた人たちを優遇して、大臣のポストを与えたことから始まっている。

人選の大切さ。自分を応援してくれた人を優遇するのは「情実人事」だ。「国の運営、骨格を支える人として適格であるかどうか」でまず見るべきところ、情実が優先したこと自体、今後もこうした大臣の不祥事は続くと見なければならない。

「情けは美しいが、判断を誤る」のだ。トップに立つ人は、判断の際この言葉を忘れてはならない。情けがなければ人はついてこない。しかし、大事な判断を下す際に、情けに流されては正しい判断は下せないのだ。むしろ普段に愛情ある国政をこそ望みたいものである。

また総理をはじめ政治家は、人を見る目を養うことをはじめ、根本から育てなければならない時代になっているのではないだろうか。やはり大志塾の必要性を痛感する。

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2007年2月 3日 (土)

車は、命を乗せて運ぶもの

皆さんは、車を求めるときにどんな気持ちで探すのだろうか。

「少しでも、安く買いたい」「こんな機種がかっこいい」

最新の性能や色々な流行はあると思うが、車を求めるときにはファッション的なものや、ステータスで選ぶだけでなく、「車は、命を乗せて運ぶもの」という大原則があるということを忘れないでほしい。

特に長距離の運転をする人や、営業車を求めるときなど、経営者や購入担当者は、「どうぞ社員が安全に、そしていい仕事が出来る車をお与え下さい」と願って、車を求める気持ちが大事ではないだろうか。

自家用車ならば「自分そして家族が安全に、そして快適に乗れる車を」と思って求めることが、大切だ。

非科学的にとられるかもしれないが、願ったとおりの車に出会う確率は非常に高い。ただ願わないだけだ。「命を乗せて運ぶもの」という大原則を忘れ、「少しでも安く、買い叩いて」と思って求めると、高級車であっても、いい製品には当たらない。同じ規格ならばすべて同じものと思ったら大間違いである。

物にはすべて魂が宿っている。だから、自分の思いに相応する車と出会うのだ。生命を運ぶ車は、選ぶときはもちろん、購入後もたいせつにすることだ。そうすれば、車はそれに応えてくれるのだ。

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2007年2月 1日 (木)

なぜ同じ製品で、差が出るのか

同じ企画のものであっても、長持ちをし、素晴らしい成果を発揮するものもあれば、いつも故障を起こし、あるいは事故を起こすものもあるのはなぜだろうか。

実際にある人が求めた車は、新車購入直後に駐車したとたんに、他の車にぶつけられ即修理になり、それからも次々とクラクションが鳴ったり、鳴らなかったり、エアコンが壊れたりする。何年かの後に手放したが、その間に何度も追突事故にあい、年に何度も修理を必要としたという。

私も一度、ブレーキの甘い車に当たってしまったことがある。何度も修理に出したが治らず、とうとう命に関わることでもあり買い換えたが、基本的にどんな機械でも最初に感じた不調は、最後まで悩まされることが多い。

はっきりと言えることは、鉱山などで採掘するときや運搬のとき、さらには製造過程においても、朝の清々しい時と、夕刻の疲れて「早く終わらないかなあ」という思いの重なったときとでは、大いなる差異となって現れるのだ。人の思いというものは、すべて製品に表れているのだ。そこに素晴らしいものと、故障や事故ばかり起こす製品の差があることに思いを致すべきである。

「健全なる精神は、健全なる身体に宿る」と言われるが、「健全なる身体は、健全なる精神によって培われる」のである。

製品も同じだ。健全なる精神で培われた製品は、健全なる製品となる。世の欠陥車や欠陥商品は、健全なる精神で作られてはいないのではないだろうか。

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