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2007年2月19日 (月)

教育改革 その1  先生は、なぜ要るのか

誰一人「教育とは何ぞや」を論ずることなく、教育基本法の文字面を直して、教育基本法を改正したと言う。一体教育のどの部分をどう改正したと言うのだろうか。

 そもそも「教育とは何か」。「教育とは、教えることではなく、育てることである。育たぬ限り、教えたことにはならないのだ」と思う。また「何の為に教育するのか」と言えば、「生徒一人ひとりの個性を活かしながら、人格を形成するためである」と言えよう。言い換えれば、それぞれの分野において、「立派な人に育て上げる」ことである。

 この原点を忘れた現在のような教育なら、学校の先生などいらぬことになる。文部科学省は、各学年ごとのビデオを作製して、全国の学校に配布すれば、先生の資質云々の問題も解消されるし、生徒は何度でもわかるまでビデオを見ることが出来、先生の「時間がない。忙しい」という言葉も、残業手当の心配もない。

しかし、「先生は要らない」ということを言いたいのではない。今のような、知識偏重の教育なら不要だと言っているのだ。では、なぜ先生が必要なのか。それは「十人十色」と言われるように、生徒一人ひとりの個性は異なるのだから、その生徒の個性、特にその子の天命を見抜いて、その方向に進ませる必要があるからだ。

そのためには、直接生徒と接する現場の先生が必要なのである。したがって、生徒の個性や天命を見抜く力のない先生は、先生としての資格はないのだ。いわゆる「でも、しか」先生でも、サラリーマン先生でも困る。やはり先生は、聖職者でなければならない。たとえ一年間であれ、生徒の人格形成の一端を担う職業だからだ。

 したがって、現行のように「あなたの成績ならこの学校なら受かるよ」という進学指導は、根本的に間違っている。だから、せっかく高校に進学しても、「自分には合わない、面白くない」と言って、一学期で退学してしまうことになるのだ。

 むしろ「あなたは、こういう方向に向いているから、そちらの方向に向かっての学びをするといいですよ。そのためには、今のままではこういう点で難しそうだから、そこを重点的に補いなさい」というのが、先生の役目ではないのか。

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