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2007年3月29日 (木)

情けは美しいが、判断を誤る

人は判断するときに、何を基準にしているのだろうか。

「情実人事」という言葉があるが、「情」を優先した判断は、誤ることが多い。なぜかというと、「世話になったから」「かわいそうだから」「恩義があるから」と言うのは、人として当然日常には持つべき心の温かさではあるが、大事な物事を決定するときの判断の基準ではないからだ。

日本人は、どちらかというと物事を見るときに、「情」がどうしても優先しがちである。

選挙での投票も、「あの人のお父さんに世話になったから」とか、「何々だから」ということで、本当は政治家としてつまなければならない資質や実際の実力もない二代目を、いともあっさりと当選させてしまうことなどがいい例ではないだろうか。

安倍内閣の組閣にしても、自分を総理に応援してくれた人を閣僚にした。そこに次々と閣僚の資質を問われる問題が噴出したのだ。功績に対する恩情は別個にすべきで、これから国家を運営して行こうという閣僚ポストを割り振るなどは、もっての外である。公私混同もはなはだしいと言わざるを得ない。

国政担当者として相応しいかどうかで、見るべきである。出来得れば、国家百年の大計を立て得るような、強力な閣僚人事を選出すべきである。「美しい日本」という標語そのものは悪くないが、「情けは美しいが、判断を誤る」という表題のように、判断を誤る国家になってもらっては困るのである。

やはりそこには、強さと、言うべきことは言える自主、独立の本当の国家であって欲しい。外国の言いなりになるような、属国のような国家運営は、もうたくさんである。

こうしたことは、企業も同じである。情実で、人事を決めてはならない。人に対する情けは大切であるが、それはむしろ日常において暖かく接すればいいことで、組織としての人事に使用すべきではない。人事はあくまでその人の能力に応じて適材適所に鳴るようにすべきであり、会社にとって有益となる人事に徹するべきである。

何か会社に貢献するものがあれば、その点を見てあげればいいのだ。決してポストを与えてはならないのだ。

 全社員共に、普段には愛情を込めて接する。情けがなければ人はついてこない。しかし判断の際に情けに流されてはならないのだ。ここのところを、銘記して欲しいのである。

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2007年3月27日 (火)

表・裏・横からの判断

 人は、物事を見また判断をするときに、自己中心になりがちである。そこで、私は常に「表・裏・横」から見て判断することを勧めている。

 たとえて言えば、自分の主張や意見を表、相手の反対意見を裏とし、それぞれの主張や意見を第三者が客観的に見、判断したらどうなるかを横とするのである。自分自身がこのように判断して行けば、少なくとも判断に過ちを生ずることはなくなるであろう。

 政治を司る人達も、自分の主張と相手方の言い分を比較検討し、国民はどう見るかを常に考えて行けば、もっともっと世の中は良くなるのではないかと思うのだが。

 企業においても、社長派と専務派とか、常務派などの意見の相違は、他の企業なり、一般の人達がどう受け取るかを常に配慮して行けば、判断に狂いはなくなるはずである。人は往々にして、目先の議論に捉われがちであることに留意すべきである。

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2007年3月26日 (月)

人は、人のために生きる

人は、そのままだと赤ちゃんの頃から自分中心に生きている。

 しかし成長するにつれ、人のために尽くすことを覚え、実践し、心が成長していく。

 人は、本来「自分は人様の役に立っている。世の中の役に立っている」、あるいは「家族の役に立っている。自分は人から頼られている。求められている」という思いが、生甲斐になっている。

 「人が喜んでくれることを楽しむ」と言うか、自らの喜びとする人は、人生としての生甲斐を感じられる人です。人は、本質的に「人のために尽くす喜び」というものを持っている。それは『人』と言う字が示すように、人はお互いに助け合い、支えあって生きていくようになっているのだ。

 これが本来の日本人の生き方であった。しかるに戦後教育によって、「自分さえ良ければよい」という考え方に、百八十度転換してしまった。他人のことには一切構わず、自分さえよければそれでよいとの考え方が、蔓延してしまったのだ。

 本来は、家族のためであってもいい、隣人や友人のためであってもいい、自分以外の人のために尽くすことに喜びを感じていた日本人が、自分さえよければそれでよしとする考えに変わった根本はなんだったのか。

 それは、「正しいかどうか、人の役に立つかどうか」という価値基準が、「損か得か、儲かるかどうか」に変わったところにある。一般的に言えば、「それをしたら、どれだけ儲かるの」という感覚である。

 所詮人の世は、社会という人の集まりによって成り立っているのである。その世の中を住みよくするか、悪い世の中として不安と混乱の世にするかは、その時代に生きる人々の考えの集合によって決まるのだ。

 経営も同じだ。人様の役に立つものを製造するなり販売するなりすれば、おのずと繁盛するのである。何をもって社会や国家に貢献するかが大切なのである。ただ設けようとするだけでは、一時的には栄えたように見えても、長続きはしないのである。ホリエモンや村上ファンドなどは、他山の石として肝に銘ずべきである。

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2007年3月17日 (土)

公務員の天下り問題について

公務員の天下りが問題視されてから久しいが、いまだにとやかく言われている。日本人は、「熱しやすくさめやすい」と言われているが、最近はその本質を見ることも忘れて、表面だけで云々しているように思えてならぬ。

公務員の天下りによる弊害は弊害として、厳しく戒めなければならないが、果たして天下りそのものがいけないのであろうか。むしろ天下りによる元の官庁との癒着が弊害なのではないだろうか。だとすれば、天下りの者についてはその名簿を出させ、元の官庁との間に癒着の起こらないように、厳しく監督する制度こそが要求されるべきであって、天下りそのものを規制することには反対である。

なぜならば、その分野においての第一人者を欲している会社にとっても、その機会を失うことになるし、その人にとっても自分の技術なり能力を発揮する場所を失うからである。それは大きく国家の立場から見ても、適材適所としての人材を失うことになる。

さらに問題なのは、今現在の問題解決のために、公務員の天下りを規制することのみを云々していると、東京大学を始め各大学からの、日本の将来を担うべき若者たちが、国家公務員になることを忌避し、国家公務員試験に合格することは、一流企業への就職のためのお墨付きとして利用されるに過ぎなくなることに留意すべきである。

このようになってからでは、むしろ日本の将来において、優秀な担い手を失い、憂慮すべき事態に陥ることになる。やはり天下国家を論じる若者が、喜んで国家の担い手になるような制度をこそ確保すべきではないだろうか。天下りそのものが悪いのではないのだ。

目先の問題に目を奪われ、しかもその本質を見ることもせず、藪医者の手術のように、十把一からげのような処置をしていると、将来に禍根を残すことになる。問題点のみに対処すればよいのである。

将来の夢と希望に燃えて、国家の指針をも決定し得ると国家公務員の道を選んでみても、早い定年を迎えたとき、天下りはならないと第二の人生を閉ざされたのでは、公務員を志す者はいなくなるだろう。もう一度言う。弊害の部分だけを除けばいいのである。

各企業においても、同じことは言えるのだ。目先の問題にのみ心を奪われて対処し、将来に禍根を残すことのないようにして頂きたい。社員に夢と希望を与え、働き甲斐のある職場にしていただきたいものである。

優秀な社員は、定年後も継続して採用し、その技術や能力を活かすだけでなく、若者の育成等にも、その経験とかノウハウを活かしてもらえるように、しかもそれを制度化しておいて、社員の定年前にやる気を促すことが得策だと思う。

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2007年3月16日 (金)

「和を以って貴しとなす」の真髄は

易の考えで、『相生相克(そうじょうそうこく)』という言葉がある。木火土金水(もっかどごんすい)と言われ 「相生」として、互いに生かしあう関係と、「相克」として相手に勝とうとして争う関係があるとされている。

たとえば火に水をかければ、火は消えてしまう。木は、土からは栄養をもらうが、火には、燃やされてしまう。

しかし、こうした見方で物事を見ると、すべてが「敵か見方か」ということになり、相手の「火は消してしまえ」、「木は燃やして何一つ残さないようにしろ」、苦手な相手は、自分が戦うのではなく、それを苦手とするものと組み、その人に苦手な相手を倒させよということになる。

火を目の前の燃える火だけと捉えれば、木は燃やされてしまい、近づかない方がいいということになる。火事は、もちろん消さなければならない。だからこうした話をすべて否定するのではないが、日本に昔から言われている「和をもって貴しとなせ」という観点から見たときに、どういう受け取り方になるだろうか。

 火と水の接点は、湯である。その湯にゆったりと浸かって、一日の疲れを癒すことも出来れば、蒸気やエネルギーとして使用することも出来るのである。そこにはなんら争いとか争うという考えはない。

しかもわが国は、単なる和ではなく、大いなる和でなければならないとして、『大和の国』と称されたのである。その精神は、現代の世の中にいかに受け継がれているのであろうか。

経営者と労働者は、あたかも相克のように対立し合い、経営者は搾取するものとして、賃金や労働条件の確保に努めようとする。こういうと、「そのどこが悪いのか」と言われそうだが、もう少し待って欲しい。

また政治においても、与党と野党は相対立するものとして、互いに相手をそしり、足の引っ張り合いをして、ひきずりおろそうとしてはいないだろうか。与党からも野党からも、「それが俺たちの立場だ」と言われそうだ。

しかし、こうした対立概念のところで育った考え方と、上に立つ者は下の者に対して慈愛の心で接し、下の者は上の者に対して敬愛の念を持って接してきた、いわば徳政のもとに育ってきた日本人にとって、こうした対立概念は合わないのである。

 『和を以って貴しとなす』精神は、互いの立場から切磋琢磨して、よりよい国政を敷くことにあるはずで、相手をやっつけるのが本意ではない。経営者も労働者も、はたまた与党も野党も、日本人ならば本来の日本人に立ち返って、いかに日本という国を蘇らすか、また日本国民の健康と幸福を願い、確保するかに専念して欲しいものである。

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2007年3月13日 (火)

基礎が出来てから、鍛える大切さ

最近「新人の看護師さんの定着率が、大変に悪い」という報道を聞いた。その理由としては、看護学校で学んだことと実際の実務との間に相当の差があり、実際の医療現場のほうが比較にならないほど、最先端の医療機器などのハイテク化が進んでいるため、それについていかれないことから、次々にやめてしまうのだという。

看護師さんの仕事は、患者さんの命に関わるもので、一つの操作ミスが命に関わることも少なくない。そこへ人手不足のこともあり、新人一人で新しい医療機器などを担当させるなど、学校では習わなかった機械の操作など、その不安とストレスで、自分は看護師に向かないのではないかという自己嫌悪に陥る人も多いと聞いた。

ある病院では、新人看護師の定着率をあげるための試みとして、最初は新人一人ではさせずに、

必ず先輩がついて行い、これなら出来るという見きわめをしてからさせるようにしたという。

何か身に着けていく過程には、失敗せずに見につけられるものなど、ないのかもしれない。そしてそこから何度も立ち上がって、覚えていくことも大事だ。

しかし、最初から失敗させて、恐怖感を植え付け、自信をなくさせることから入るのか、最初はたとえ小さな成功体験でも、喜びから入るのとでは、思いのほか大きな差になる。まして人の生命に関わるものは、それだけでも精神的な不安と負担は重いものがある。

基礎が出来てから鍛える大事さ。これから新入社員の季節でもある。基礎もないうちに「まず失敗して身体で覚えろ、みんなそうして身につけてきたのだから」とするのは、こくな話である。教育機関との格差をなくすと共に、人のために喜びを持って勤務できる看護師の養成こそ、急務であろう。

これは何も看護師に限った話ではない。

自動車教習所では、基本だけを教えるのが原則かもしれないが、やはり日常的に走る上で必要なことは、当然教えておくべきではないかと思う。

たとえば、走行車線から追い越し車線に入る場合、初心者は追い越し車線に入ってからアクセルを踏もうとする。したがって後続車に追突されそうになる。また反対に、追い越し車線から走行車線に戻る場合も、そのままのスピードで戻ると前の車に追突しそうになり、慌ててブレーキを踏むという危険を冒すことになる。

追い越し車線に入るときには、走行車線のときにアクセルを踏んでから入ると、追い越しも楽に出来るし、走行車線に戻るときにはアクセルを踏むのをやめて、エンジンブレーキの状態になってから戻ると、前の車に追突しそうになることからも開放されるはずである。

さらにカーブのところでの追い越しは、右カーブのところで追い越し車線に入ると抜きやすく、左カーブのときに戻れば、楽に戻れるのである。こうしたことは、内側の円のほうが外側の円よりも短いことの応用から言っても当然のことなのだが、案外応用されていないのである。

合流地点でも、交互に合流すれば滑らかに進めるのに、どちらか一方が「入れてやるものか」と頑張るようなことをすると、他方は完全に停車しなければならなくなるから、その分当然に次の発信が遅くなり、全体としては渋滞の元になるのである。

左右のウインカーも出さずに曲がる車などは、論外のマナーの問題であろうが、こうしたことが他の車の運転手に不快感を与えたり、苛立ちを与えて、事故に繋がることが多いのだ。また社名の入った車は、その会社の動く宣伝カーであるから、無謀運転などは知らず知らずのうちにマイナスのイメージを世間に与えていることに思いを致すべきである。

こうした自覚と誇りを持って運転していただきたいものである。この点も、社員教育に必要なことであろう。

社員が喜んで出来るように、先輩・上司など周囲も工夫をすることが、会社全体の活性化にも繋がることではないだろうか。

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2007年3月12日 (月)

最初が肝心

車の運転は、最初が肝心という。最初にうまく滑り出すことが出来るか、失敗をしてしまうかで、車の運転が好きになるかどうかが分かれる場合すらある。

ある人は、免許を取って最初に乗った時に、車庫から車を出す段階で壁にぶつけてしまい、その上国道に出るまでのわずか五十メートルくらいの間に、五十センチくらい下の溝に車を落としてしまい、あれほど「免許! 免許!」と騒いで取ったはずなのに、二度と乗らなくなってしまったという。

その家は、車庫の位置が道路から見て斜めになっており、慣れればなんということもないものであっても、初心者にとってはハードルが高いところだった。

たとえ細い路地を曲がるときでも、慣れるまではたとえば父親などが同乗して、「ゆっくりともう少し前にでて、ここで大きくハンドルを切る」というようにリードしてあげれば、一見難しそうに見えるところでも難なく回ることが出来れば、本人も「こんな細いところを曲がることが出来た」という自信と喜びに繋がるものだ。

車の運転は、自分の意志でなくても、ヒヤッとすることはたびたびある。しかし、あの細い路地でも曲がることが出来たという自信を最初に植え付けてあげることが、大事ではないだろうか。初心者は、得てして角を早めに曲がろうとしがちである。

すると、車が斜めになるから、道幅を車の長さでふさぐ形になり、とても曲がりきれないと思うのである。大きく曲がれば、車幅の分だけで通れるから、狭いと思われた道幅でも通れるのである。

こうしたことは、何も車に限ったことではなく、新入社員にも当てはまることである。入社時に自信と喜びを与えるか、不安と失望を与えるかの大きな差になることを、よくよく配慮すべきである。

まして、してもらうことに馴れ、甘やかせて育てられている若者には、懇切丁寧に教えなければならないという時代の流れなのかもしれない。昔のように、鍛えを前提とする時代とは大きく異なるのかも知れない。

その他の部分も、わかっていそうで案外わからぬままに過していることが多いので、先輩や上司はそうした点にも考慮して、効率のよいそして暖かい職場に留意すべきではないだろうか。

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2007年3月 8日 (木)

いい土地、悪い土地

同じ規格のものであっても、作られる工場によって出来上がりの製品に差が出ることは、製造業の方であれば感じておられるのではないだろうか。もちろんその工場に働く社員の気構え、取り組み方などで違いは当然出てくるが、その土地がいい土地か、あまりよくない土地かが、意外に大きく影響しているのである。どちらの製品であるかで、作業の効率も変われば、そこから出来上がる製品の出来まで変わる。

田んぼでも一反あたりで取れる稲の量によって、上田(じょうでん) 中田(ちゅうでん) 下田(げでん) と分けられるという。いい田んぼに恵まれた所は、いい米がたくさん出来る。反対によくない田にあたった人は、手入れをしてもなかなか収穫に結びつかない、また出来が悪い。このように数量の差だけでなく、その品質にも大きな差があるのだ。そのくらい土地から受ける出来不出来の影響は大きい。

しかし、これは製造業や農作業だけではなく、一般の住宅や職場についても言えることである。いい土地の力を受けて力強く育つのは、何も農作物だけではない。人の健康や、教育の場としても大きな影響がある。

近頃のように、青少年の非行化やいじめの問題にしても、戦後のベビーブームに対応した学校建設の際、それぞれの市町村の人たちは、将来の日本を背負う若者のためにと、一等地と言うか上田を提供したであろうか。むしろそれぞれの人たちにとって下田に相当するところを致し方なく提供してはいないだろうか。

こうした土地の学校からは、素晴らしい青少年の育成を期待する方が難しいことである。こうした根本的なところから、もう一度見直してみる必要があるのではないだろうか。人は、往々にして、作られた歴史を前提に見がちであるが、その歴史の分岐点から見直すことが大切なのである。従前の神社の土地は「いやしろ地」と言って清らかな場所を指し、「けがれ地」と区別されてきたことも、参考になるのではないだろうか。

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2007年3月 3日 (土)

財産には眼に見える財産と眼に見えない財産がある

世の中には眼に見える財産と、眼には見えない財産があることにお気づきだろうか。

 眼に見える財産、お金や土地やその他いろいろな物は、財産が目減りしたことに、すぐにも気がつく。

 しかし、眼に見えない財産の目減りはどうだろうか?

 先見性、判断力、決断力、統率力、そして信用・・

眼に見える財産を生かすもつぶすも、この眼に見えない財産の力によるものが大きい。

 親は、目に見える財産、形あるものを子に譲り渡してあげることは出来る。しかし、どんなに親が子を思っても、眼に見えない財産をそのまま譲ることは出来ない。

 本人が目に見えない財産のことに気がつき、そこに目を向けたときに、初めて発動するのである。「気づき」が自分の中で生まれるかどうかは、目的の持ち方と真剣さ、そしてその積み重ねから生まれる。

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