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2007年4月25日 (水)

世の中に、タダほど高いものはない

募金のすべてとは言わないけれども、記念事業の募金などの中には、ただ目標の金が集まれば、それが誰からの、どこからの、どのような金であろうと、なりふり構わぬ金集めをしていることに、たびたび出会うことがあるが、本当にそれでいいのだろうか。

「こじき」と言うと言い過ぎになるが、寄付をしてもらう意図が相手に伝わらずに、ただもらうだけでは、こじきと言われても仕方あるまい。

「タダほど、安いものはない」と言う人もいるが、世の中で「タダほど、高いものはない」のだ。

仮に何らかの寄付をしてもらうときでも、金銭ではない何かを必ず返しているだろうか。「この人を、あるいはこのことに支援をして良かった」と思わせる何かをしているだろうか。出す方よりも、集める方にそれがなくては、その先の繁栄は難しい。それは一回きりに終わるからである。

それにもらう方にも、安易にさせてはならないのである。ただでもらえることに慣れてしまうと、その者に「くれくれ」という餓鬼の心を植えつけてしまい、勤労意欲を失わせてしまうからである。それではその者の人生を台無しにしてしまいかねない。

しかし、金で物事を片つけないで、真心や行動で返す方が、本当はずっと大変なことである。

 

 それは、政治家の資金集めでも同じだ。ただパーティ券を売ることに躍起になりすぎ、「本当にそれに報いる行動をしているのか」と問われて、答えに詰まるようでは心もとない。

ただし、目の前の、後押ししてくれている人の顔色を見ることのみが、大事というのではない。政治家こそ、そのお返しは、天に返すべきである。大きな目で、目の前の人の思惑にのみとらわれての判断をしているようでは、国を動かす政治家としての資格はないのである。もって肝に銘すべきである。

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2007年4月24日 (火)

本当に事業を受け継ぐ時には 

昔の「家督相続」というのは、ただ財産を受け継ぐだけではなく、その家の仏壇やお墓、つまりご先祖様も含めて、家そのものを引継ぐことを意味した。

それは、好むと好まざるとに拘らず、先祖からの良いもの、財産や徳と言われるものも、負債や業のようなマイナスの面も、すべて受け継がなければならなかったのだ。 

 それは「先祖や親が何を自分に託したのか」その問いかけをしながら、今生きている自分がなすべきことに目を向けたときに、自分の中の血が、大きな歴史と融合し、新たな息吹を生じることになる。

 人は一人のようでいて、本当は目に見えない大きな力によって生かされているのだ。

先祖を大切にし、その心、その意を受け継ぐことが、日本人の経営の中でも大切なことではないだろうか。

今は、平等という名のもとに均等相続になっているが、それではせっかくの大木を切り倒して、薪にして分けているようなものだ。これではその家としての樹木は栄えないし、一時的にはたくさんの薪をもらったようでも、いつのまにか消費して終わりということになってしまう。

その家が栄えるには、その樹木を残し繁栄させる必要がある。神仏の加護を得られるように、家督相続によって跡を継ぐ者にある程度の樹木を残して繁茂させ、他の部分の樹木を切って分配するなどの方法をとるべきではないだろうか。


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2007年4月23日 (月)

日本が、本当に輸出すべきものは何か

日本の貿易黒字が、外国から非難を受けたことがある。世界中の木を伐採するなど、「日本人は自分のことしか考えない民族」とまで言う人もおり、国際社会から見た日本の評価は必ずしもいいものではない。

また、貿易摩擦によって、日本製の自動車や電気製品が叩き壊されたこともある。それでもトヨタやキャノンをはじめとする素晴らしい製品が、海外に輸出され好評を博している。これらは、日本人の優秀な頭脳と勤勉さによる努力の成果と言えるであろう。

しかし、日本が本当に輸出し、世界に送り出さなければならないものは何なのだろうか。

資源が乏しい、国土が狭い所にたくさんの人が住んでいる。だから外国から材料を仕入れ、そして加工して製品化し、それを輸出すると言う従来のやり方から、工場を海外に移転し、そこで加工することに方向を変えている所もあるが、基本として国際社会での日本の役目を見直してみたい。

国家として世界中に金をばら撒くことであろうか。本当に災害などで命の危険にさらされている時には、人の命は何よりも優先しなければならないが、いつまでもただ金を出すという姿勢は、「くれくれ」という餓鬼を作り出すだけである。

こういう消費的なものの与え方は、際限なく要求を余儀なくされる。したがって、生産的な与え方をしなければならない。そこに設備や技術の指導が必要となるのだ。その国の人々が、勤労意欲を持ち経済発展出来るようにしてゆくことである。

そして何よりも大切なことは、「和を以て貴しとなす」寛容の精神と、国際協調の心ではないだろうか。己の信ずる神を信ずる者は味方だが、そうでない者は敵だとする敵か味方かの二者択一的な考え方では、世界に真の平和を得ることは出来ないであろう。

争いの根源は、この敵か味方かと言う狭い了見の中で、しかも為政者とそれに反対する者の思いを遂げんする欲得の対立によって、その民族や国民を貧困や生命の危険にさらしているのである。

日本人の和と寛容の精神に満ちた心と魂こそ、世界に輸出すべき最大の宝ではないだろうか。それには、まず日本人自身が、古のその心と魂に蘇る必要があろう。

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2007年4月18日 (水)

相手のために、相手の立場に立って

現代に生きる私たちは、自己主張をすることに汲々としてはいないだろうか。それだけ世の中が世知辛いのかもしれないが、日本人の本質的な生き方としての『思いやり』の精神が置き忘れられているように思います。

 また、相手のためによかれと思ってしている方は、結構おられるように思います。しかし、それが思いもよらぬご迷惑をかけていることがあります。私の父が家を建てたとき、親戚の者が勝手に欄間を頼んでしまい、父としてこういう欄間にと思っていたものが出来なかったことがあります。こうしたことは、一見親切なことのようであっても、いわゆる「小さな親切、大きなお世話」の部類になってしまいます。

 ですから、ただ「相手のために」というだけではなく、「相手の立場に立って」考えることが大切なのです。企業間の取引でも、労使間の問題でも、この二つの視点から見ていれば、ほとんど解決出来るはずです。

 経営者は労働者の立場に立って、自分なら賃金の問題か、労働時間の問題か、その他の労働条件の問題かを考えれば、労働者の立場に立っての考え方が出来るであろう。また、労働者も自分が経営者なら、現況以上のことが出来るだろうかと考えれば、自ずと感謝の気持ちになるだろうし、それ以上のことが出来ると思えば、事業に対する改善提案をすればいいということになろう。

 要は、互いに対立するのではなく、和の精神を中心に据えつつ、お互いに相手のためを思い、相手の立場に立って行うことである。そこで、相手の立場に立ってすることが、大きく時代をも動かした話をして終えることとしよう。

 山岡鉄舟が幕府を代表して、単身駿府の西郷隆盛のもとへ赴いて交渉したとき、西郷は大総督宮へ取りついで、1城を明け渡すこと、2城中の人数を向島へ移すこと、3兵器を渡すこと、4軍艦を渡すこと、5徳川慶喜を備前へ預けることという五箇条の条件を出されたとき、「謹んで承りました。しかし、最後の一か条だけは、どうしてもお受け致しかねる」と、頑として拒否し、西郷の再三の「朝命でごわす」の言葉に対しても、「たとえ朝命であっても、承服できませぬ」と突っぱね、

「あなたと私の立場を換えてお考え頂きたい。かりにあなたのご主君島津公が朝敵の汚名を受けて官軍に攻められ、ご主君は恭順・謹慎されているときに、朝廷から『主君を他の藩へ預けよ』というご命令が下されたとしたらどうなさられるか。あなたはそれをお受けして、すぐにご主君を差し出し、自分は安閑として傍観しておられますか。君臣の情、あなたの義はいかが。只今の慶喜へのご命令は、鉄太郎決してお受けするわけには参りませぬ!」と言い放ったのです。

 

 しばらくして西郷は、「あなたの言われることは、まことにもってごもっとも、よろしい。慶喜殿のことは、この吉之助がきっと引き受けて取り計らいましょう。ご心痛にはおよびませぬ」と言って、これに応じたという。

 立場を換えてみれば、その心情もよくわかるというものである。これによって、無血のまま明治維新はなったのである。

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2007年4月17日 (火)

人生には浮き沈みがある

人生には、浮き沈みがある。そうして浮上しているときには、まさに浮かれて有頂天になったような生活をしがちである。反対に沈んでいるときには、人のせいにしたり、世の中を恨んだりしがちである。そのようなことのために、浮き沈みがあるのだろうか。

 あるときある方が、伊藤博文公に「あなたは、あなたのお力で、総理になられたと思いますか」と尋ねられた。伊藤博文公は、当たり前ではないかという様子で、「そうだが」と答えられた。するとその方は、「では、なぜ最後まで総理でいなかったのですか」と問われて、答えられなかったのです。

 人に浮き沈みがあるのは、浮上しているときにはどれほど国民のことを思い、また国民のために施策を行うかを見、沈んでいるときはその間に次の機会までに、どれほど学び備えるかを見るためなのです。これは、各企業の経営者にとっても同じことが言えるし、各人の人生を考える上においても同じことが言えるのです。

 すでに弘法大師様のお言葉として、「いいとき三年、悪いとき四年と心得めされよ」とお伝えしたことと併せて、お考え下さい。人生に浮き沈みがあることは、前提なのだと。だからこそ、いかなる環境・境遇をも、自らの手で変えることもまた可能なのだと。

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2007年4月16日 (月)

同じで 同じでなくて 同じ

子供の頃に聞いた話で、定かではないが、記憶によれば昔、エジプトのピラミッドの前にいるスフィンクスが、「はじめ四足で、次に二本足になり、最後は三本足になるものは何か」と質問して、人々が答えられなかったと聞いたことがある。

よちよち歩きの幼子は四足であるが、やがて二本足で歩くようになり、年老いてくると杖を頼りに歩くことから、これを三本足とみてこのような質問をしたのであろうとすいそくされるが、要するにその答えは『人』である。

それと同じことが、今日の表題である。「同じで 同じでなくて 同じ」、まるで禅問答である。最初はなかなかわからなかった。一体何なのだろう。考えれば考えるほどわからなくなる。冷や汗がにじんでくる。必死になって答えを得ようとするのだが、頭の中は堂々巡りをするだけだ。正座した膝の上に載せた両手の握りこぶしが、わなわなと震えている。

その震えている手を見た途端に、全てが解決した。「なんだ。自分自身のことではないか」と。フジワラヒロシという自分がこの世に生を享けて生まれ出た頃の赤ん坊と、現在の自分とではずいぶんと異なるが、でもやはりフジワラヒロシには相違ないのである。

要は、「同じでなくて」の部分が大切なのであって、人の一生の間に、「どれだけ成長し、どれだけ人の役に立ち、どれだけ自らが満足し、どれだけ後世に託すものがあるか」に尽きるのではないだろうか。

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2007年4月 5日 (木)

身体は、一つの繋がったもの

よく胃なら胃だけを治してくれさえすればいい、腎臓なら腎臓だけ、それも「今すぐ治してくれ」という人に出会うが、身体は一つの繋がったものであって、胃だけとか腎臓だけが、身体から独立しているのではない。

いわゆる西洋医学が発達してからは、やたらと手術をしたがっているように思えてならない。そのくせやたらに「あと三ヶ月の命」などと、平気で患者さんに告げたがる。告知についてはすでに述べたが、聞いた患者さんはどう受け取るのだろうか。

医者は本来、人の生命・身体を司る者として、『偉者』と称されていたのである。しかも各人が持っている『自然治癒力』を再生させて、自然のうちに回復させることを目指したのである。やがて現在のような病気治しの医者となり、それも「医は仁術」から「算術」になり、さらには「手術」から「誤術」になり、見立てを誤るばかりか、身体の中に鋏やガーゼを置き忘れるという失態まで生じている。

 

 いまや医者は、異なる者になり下がり、「異者」となってしまってはいないだろうか。東洋医学の見直しもなされてはいるが、ある意味で気長に、自然のうちに治して行くことが大切なように思う。

「風邪は万病のもと」と言われるが、身体の中のどこが悪かろうと、要するにその人の発する気が弱っているときに、その人の身体の一番弱いところに症状として現れるのである。したがって、そこだけを治せばよいというものではなく、氷山の一角として現れたに過ぎないものとして、身体全体に気を甦らせる方法を考えるべきである。

日常の養生こそが大切であると共に、自然の治癒力こそが、何にも増して大切であることを認識していただきたいものである。朝日を浴びたり、きれいな空気を吸い、おいしい水を頂き、新鮮な野菜や果物を、感謝の気持ちでありがたくいただくことが、何よりの栄養であり、健康法である。そうすれば、自ずと自然環境の大切さもわかってこようと言うものである。

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2007年4月 4日 (水)

勤労に対する考え方の違い

働く者のその時々の思いが、世の中の動きに作用してはいないだろうか。人様のことを思い、その仕事を通じて、社会のために貢献しているとの自信と誇りを持っているだろうか。

日本人は、本来こうした思いで働いてきたはずである。だからこそ、朝は朝星、夜は夜星でも頑張ってきたのだ。それは、大自然と共に、あるいは神と共に働くとの観念からであった。どこかの国のように、「男子は罪として働き、女子は罪としてお産の苦しみを味わえ」と言うのとは、労働に対する根本的な考え方が異なるのである。

こうした罪として働く場合には、時間が来れば仕事の途中であっても、さっさとやめて帰宅してしまう。「日本人はバカだから、サービス残業が多い」とか、「働きすぎだ」と言われるのも、こうした根本的な考え方の相違から来るものがあるのだ。そうした中で、一律に外国の制度を真似ることが、果たしていいものであろうか。いいものは取り入れ、合わないものは日本人に合うような取り入れ方をすべきではないだろうか。

最近のようなワーキングプアーなどは、いかに国の政策が無策であるかを象徴するものである。これは、単に個々人の問題ではない。地域社会全体を崩壊させ、地場産業まで駄目にしているところさえあるのだ。「貧富の差は益々広がる」というだけでなく、働く人たちの大半を占めている中小企業の行く末をも危うくしているのだ。国民全体が働くことに喜びを持てる本来の姿に戻すべきである。

こうした意味でも、やはり総理や閣僚をはじめ、それを支える財界の人たちを養成する必要を痛感する。国家経営塾がその構想であると共に、その前提として大志塾を開設する必要を痛感する。

その意に共鳴してくれた人たちが核となり、若者を対象とした時事討論会を開いているが、第四回目の今月は十八日の水曜日に午後六時から、新宿西口のオークタワーで開く予定である。

 会場への地図等は、http://www.soseinippon.jp/taishijuku/

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2007年4月 2日 (月)

告知の是非 

『和を以て貴しとなす』ということを中心に、寛容の精神に富んだ日本人の心が、いつの間にか、二者択一のような考え方に変わってしまっていることに驚きを感ずる。戦後教育が、知っているかどうかという二者択一の試験に慣らされたせいだろうか。

いろいろな討論会などでも、「何々すべきかどうか」という類の議論が多いように思う。その典型例が、医者は「癌を告知すべきかどうか」という問題であったと思う。一律に「告知すべきだ」とする側と、「告知はすべきでない」とする側が対立して、それぞれの論拠となる部分を主張しあっているのだが、わたしにはどうも納得がいかない。

これでは、キリスト教徒イスラム教のように、一神教を前提として、自分の信じている神を信じる者は味方で、そうでないものは敵だというのによく似ているように思われてならないのだ。日本は八百万の神を擁して、そのうちご縁のある神様と神縁を結べばよく、相手がいかなる神とご縁を持とうと、そのことにはこだわりのないまさに寛容の精神とはかけ離れているように思う。

告知をすべきかどうか。そのときあなたなら如何するだろうか。私は、告知の有無は、一律に論ずべきではなく、まさに告知を受ける人の人柄を見て決すべきではないかと思うのである。

告知をされても、意志が強く、むしろ限りある生命ならその間に成し遂げて置きたいものがあるというような人には告知をすればよいし、「癌」と聞いただけで気弱になって絶望するような人には、絶対に告知はすべきではあるまい。

こうしたことは、相手の意思を聞くにしても、そこにはいろいろな段階があるのだから、まずは家族の方に、その患者さんがいかなる性格の人柄なのかをよく聞いた上での判断でなければなるまい。こういう心配りこそが大切なのではなかろうか。

こうした思いやりの精神で臨めば、手術後に体内に鋏を忘れていたとか、ガーゼを忘れていたというような問題も起こらないはずである。人を単なる物として扱う風潮からこうした告知すべきかどうかという一律な議論が起こってはいないだろうか。、

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