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2007年4月 2日 (月)

告知の是非 

『和を以て貴しとなす』ということを中心に、寛容の精神に富んだ日本人の心が、いつの間にか、二者択一のような考え方に変わってしまっていることに驚きを感ずる。戦後教育が、知っているかどうかという二者択一の試験に慣らされたせいだろうか。

いろいろな討論会などでも、「何々すべきかどうか」という類の議論が多いように思う。その典型例が、医者は「癌を告知すべきかどうか」という問題であったと思う。一律に「告知すべきだ」とする側と、「告知はすべきでない」とする側が対立して、それぞれの論拠となる部分を主張しあっているのだが、わたしにはどうも納得がいかない。

これでは、キリスト教徒イスラム教のように、一神教を前提として、自分の信じている神を信じる者は味方で、そうでないものは敵だというのによく似ているように思われてならないのだ。日本は八百万の神を擁して、そのうちご縁のある神様と神縁を結べばよく、相手がいかなる神とご縁を持とうと、そのことにはこだわりのないまさに寛容の精神とはかけ離れているように思う。

告知をすべきかどうか。そのときあなたなら如何するだろうか。私は、告知の有無は、一律に論ずべきではなく、まさに告知を受ける人の人柄を見て決すべきではないかと思うのである。

告知をされても、意志が強く、むしろ限りある生命ならその間に成し遂げて置きたいものがあるというような人には告知をすればよいし、「癌」と聞いただけで気弱になって絶望するような人には、絶対に告知はすべきではあるまい。

こうしたことは、相手の意思を聞くにしても、そこにはいろいろな段階があるのだから、まずは家族の方に、その患者さんがいかなる性格の人柄なのかをよく聞いた上での判断でなければなるまい。こういう心配りこそが大切なのではなかろうか。

こうした思いやりの精神で臨めば、手術後に体内に鋏を忘れていたとか、ガーゼを忘れていたというような問題も起こらないはずである。人を単なる物として扱う風潮からこうした告知すべきかどうかという一律な議論が起こってはいないだろうか。、

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