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2009年3月31日 (火)

追い抜くときには、一気に抜け 

マラソンでも、駅伝でも見られることであるが、後ろから追いついた時、一気に抜かないと そのまま併走が続くことになる。

誰しも、抜かれまいと可能な限り食い下がろうとするからだ。

 仮に他社との競争においても、同じことが言えよう。

ぎりぎりのところで接すると、互いに息切れがするものだ。

追い抜く時は、余裕を持って一気に抜くことだ。

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2009年3月30日 (月)

人生は応用である

3月28日に自動車の追い越しの話しをした。

多分「ふーん、そんなものか」という受け取り方をされたのではないかと思う。

 これを職場に置き換えて考えると、昇進する時を、走行車線から、追い越し車線に移るとき 社長から会長、あるいは相談役などに代わる時を、追い越し車線から走行車線に戻る時と捉えてみてはどうだろうか。

仮に課長が課長の範囲でだけ物事を見、行動していると、なかなか部長には昇進できないであろう。要は応用が効くか否かである。

 課長の時に加速して、優に部長になれるだけのことをしておけば、部長になってからも、楽に仕事が出来るというものだ。

このことは、勇退する時に、アクセルを離してゆったりと戻ればよいことにも通ずる。

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2009年3月29日 (日)

腐ったみかんは、取り除け  

箱の中にたった一個でも、腐ったみかんがあると、「あっ」という間に箱中に広がってしまう。

人も同じだ。たった一人でも、サボり癖のあるような人がいると、「あっ」という間に社内に蔓延してしまう。

 

人の心が腐るはじめは、「人の悪いところばかり見る」、「陰口ばかり言う」ところからだ。こういう風潮が見られたら要注意だ。

仕事にも、会社にも愛着が無く、ただ金のためだけに働く社員は、

容易に腐りやすい。

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2009年3月28日 (土)

当たり前だけど、大事なこと

高速道路が、ETCを使うと土日は値下げになった。

高速走行の時に「当たり前だけれど大事なこと」は・・

 

車線変更が苦手だという人がいた。

「追い越し車線に入った途端に、あっという間に、後ろの車に迫られる。

走行車線に戻ろうにも、こんどは前の車に追突しそうになる」という。

追い越し車線に入ってから、アクセルを踏みこみ 走行車線に戻ってからブレーキを踏んでいるという。

 車間距離をとって、アクセルを踏んでから追い越し車線に入ると、追いつかれることはない。

走行車線に戻る時も、アクセルを踏むのをやめて、スピードを落としてから戻れば、追突しそうな不安感はないはずだ。

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2009年3月27日 (金)

現状維持は、衰退に繋がる 

今までと同じようにやってきたのに、気がついてみたら事業が衰退している例は多い。

いつの間にか、かつての商店街がシャッター通りになってしまったり、廃業に追い込まれていくのはなぜか。

世の中の激しい動きの中で、現状維持を望むことは、地球に引力があるよう下降線をたどることになり、やがて衰退に繋がるのだ。

 たとえわずかであっても、現状から創意工夫を加え、上昇を目指してこそ、事業は維持できるのだ。

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2009年3月26日 (木)

社長は幹だ

樹木でたとえれば、社長は幹である。

大木であるかどうかは、会社の規模にもよろう。

重役は大枝であり、部課長は中枝だ。

係長は小枝であり、葉は社員であり、若葉は新入社員だ。

 

新入社員は先輩たる一般社員に、一般社員は係長に、係長は部課長に、部課長は重役に、重役は社長に指示を仰ぎ、頼ればよい。

 しかし、社長は幹だから、大枝・中枝などに頼ってはならない。

まさに孤高の人である。幹である社長が頼るべきは、根である。

根は土の中で目には見えないが、神仏である。

神仏の加護を得て、泰然自若たれ。

社長室に、日々頼るべき神棚はあるだろうか。

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2009年3月25日 (水)

経営は、占いに頼るな

経営者の中には、以外に占いを信じ、時には経営の判断にする人もいる。

占いは、統計から割り出したものが多いとは言え、「当たるも八卦、当たらぬも八卦」と言われている。

それを大切な会社の運営に用いていいものだろうか。

 「経営者は孤独」とは言え、心の弱さを露呈している以外のなにものでもない。

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2009年3月24日 (火)

精神的糖尿病の時代

 世の中全体が、若者にとっては「甘えの時代」であり、大人に取っては「甘やかしの時代」になってはいないだろうか。

 大人は、「将来この子に見てもらおう」と思うためか、「見てくれないと困る」と思うせいか、なんでも言う事を聞き、甘やかしてしまう。

子供もそのことに馴れ、何でもしてくれるものと錯覚をしている。

 一人前に扱うことはいいことのようだが、何が大事なことなのかを教えず、叱りもせず、まして鍛えなどとんでもないという時代だ。

これで人生本当に幸せなのだろうか。

 単に身体的糖尿病だけでなく、精神的にも不治の糖尿病の時代になってはいないだろうか。

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2009年3月23日 (月)

常にトップを目指せ

人は、それぞれの地位に着けばそれなりにやるものだ。

社長になれば、最初はぎこちなくても、いつの間にかやりこなしている。

反面部長の椅子に甘んじると、それ以上には伸びてこない。

 一度自分でハードルを下げてしまうと、その下がった状態がその人の一番高い状態になってしまう。

 豊臣秀吉は、なんだかんだと問題はあるが、その過程において「足軽なら足軽で一番になろう」と努力した点は、やはり素晴らしいと思う。

 

営業部長なら営業部長で満足していると、そこから上には出られない。

「業界ナンバーワンの営業部長になろう」とか、「日本一の営業部長になるぞ」と頑張れば、やがて社長の椅子も転がり込んで来ようというものだ。

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2009年3月22日 (日)

感謝の気持ち

「あなたは、感謝の気持ちをお持ちですか」

 このように問われると、「神の子、人」である以上、誰でも「持っています」という答えが返ってくる。

要は、その感謝の気持ちが、どれだけ日常生活に活かされているかである。

 人に何かをしてもらったり、品物を頂いた時に御礼を申し上げるのは、当然のことである。

本当に感謝できる人は、日々の生活において、飲食できることにも、また水や空気のあることにも、さらには大自然そのものに対しても感謝をし、生かされていること、否、生かさして頂いている事そのものに、感謝できることである。

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2009年3月21日 (土)

一言の重さ

同じような言葉でありながら、時代の流れと言うか、世相の違いに愕然とする言葉がある。

以前だと「しっかり勉強しないと、お父さんのようになれないよ」と言った。そこには言外に父親を尊敬するものがある。

しかし、今は「しっかり勉強しないと、お父さんのようになっちゃうよ」と言う。そこには父親を軽蔑する以外の何物もない。

たった最後の言葉の違いだけなのに、こんなに差異があるのだ。

しかし、「父親を天」「母親を大地」と見た時、父親を軽蔑させる一言は「天に向かって唾を吐く」ように、言った本人とそれを聞いた子供に返ってくるのではなかろうか

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2009年3月20日 (金)

最高の笑顔で人と接する

「笑う門には福来る」と言うようにご自分の顔を最高の笑顔にしておかれると、

家族はもちろん、会社においても、人と接するときにも、結果は上々のはずである。

人は、同病相哀れむという状態の人以外は、皆すばらしい人のすばらしい笑顔のところに集まるものだ。

だから、昔から「笑う門には福来る」と言われるのだ。

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2009年3月19日 (木)

和を以って貴しとなす

これは聖徳太子が、十七条憲法の第一に掲げたものである。

しかし、聖徳太子が初めて考えたことではない。

 日本人にとって『和』は、神代の昔から当然とされたことである。

それも単なる和ではなく、大いなる和でなければならないと言うのが、『大和国』のいわれである。

 したがって、戦時中の「撃ちてし止まむ」式の大和魂は、軍部に捻じ曲げられたものであり、大いなる和を以って臨むことこそが、本来の大和魂である。

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2009年3月18日 (水)

歴史に学ぶとは 

「賢人は、歴史に学ぶ」と言われる。

しかし、「誰が、いつ、どこで、何をした」式の、記憶に頼る学びでは意味がない。

その人が行ったことや制度が、どのように影響したのか、またそこからわれわれは、どうして行けばよいのかをこそ、学ぶべきである。

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2009年3月17日 (火)

父親の存在

霊峰とか秀峰と呼ばれる富士山は、日本人の心の象徴である。

どこから見ても富士山は美しい。

しかし、富士登山をしてみると、溶岩の瓦礫が点在し、これが霊峰かと思われるほどである。

富士山は、遠くから眺めたほうがよいのかもしれない。

それと同じように、若き経営者にとっての父親や尊敬すべき先人は、まさに富士のような存在ではなかろうか。

余りにも近くに居すぎて、欠点ばかりを見てしまい、本質としての素晴らしさを見失ってはいないだろうか。

少し距離を置いて眺め直し、富士のような素晴らしさを見出して見てはどうだろうか。

そうすれば反発するよりも、学ぶことは多いはずである。

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2009年3月16日 (月)

自分の器次第  

最近は「国家が悪い」とか、「社会が悪い」とか、「誰それが悪い」というように、すべて自分以外の人の責任のように考える人が多い。

 しかし受け皿としての自分自身の器はどうだろうか。

 たとえば、自分の器がコップなら、そこに墨を一滴垂らしたら、コップの水は黒く濁ってしまう。

しかし、小川の流れの中に墨を一滴垂らしても、すぐさま流れて行ってしまって、なんの影響も受けない。

 仮に悪知恵の働く者が小川を堰止めたとしても、自分が大河になれば、どんな岩でも押し流すことが出来る。

他人の妨害や周囲の事情などに左右されることはない。

 自分の器が、コップか、小川が、大河か 要は自分の器次第である。

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2009年3月15日 (日)

発熱と脱皮

 人の一生のうちには、大きく変化をする時期がある。

それは、蝉や蛇のように、脱皮をするのである。

こうした時には、場合によっては発熱をすることもある。

 これを病気だと思って薬で抑えたり、氷で冷やしたりすると、完全な脱皮に進むことは出来なくなる。さりとて病の場合には、手遅れにならないよう気をつけなければならない。

よくよく見極めることが大切だ。

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2009年3月14日 (土)

人は、常緑樹

 人の一生を、植物にたとえれば、松・杉・檜などの常緑樹である。

常に青々としている。しかし、よく見ると、全体の中には少しばかり枯葉も混じっている。

 そうしたものも含みながら、全体としては常に青々と生きて行くのが人なのである。

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2009年3月13日 (金)

流れに乗る

海水浴などをしている時、潮の流れに乗ると、思いがけなく早く前に進んだり時として流されてしまったりする。

時の流れ、世の中の流れも、気がつかないだけで、強い流れとなって流れている。

流れに乗るか、流れに逆らうか、はたまた流れに流されるかは、まさにその人の生き様である。

しかし、流れは時には、正反対の方向に動くこともある。ご用心!

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2009年3月12日 (木)

何事も喜びを以って為せ

人は、生き甲斐・やり甲斐を見つけたときには、思わぬ力を発揮するものである。

自らの行うべきことに喜びを以って行えるか否かが仕事の成功不成功のみならず、人生そのものに大きく影響していることに心すべきである。

 

出来得れば、自主的・積極的に喜びを以って行うことが最良であろう。

このときには、実りも大きい。

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2009年3月11日 (水)

過労死・突然死はストレス死

週に何時間とか、月に何時間以上働いて死亡した時には

労働災害としての認定がなされているようだが、

そういう形式的な認定は妥当なのだろうか。

日本には、昔から「寝食を忘れて」という言葉がある。

画家や音楽家など、あらゆる分野において超一流と言われるような人は、

まさに寝食を忘れて行っている。

名曲の浮かんでいる時や、名画の構想が浮かんでいる時に、

食事の時間だからと言って、休んだりはしない。

自らが行う時には、疲れも覚えないものである。

要は、義務としてやらされたり、嫌々している時に起る、

ストレスから来るのではないだろうか。

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2009年3月10日 (火)

無理はするな、しかし最大の努力をせよ

人は夢中になって物事を行う時、

「無理」と「最大の努力」の区別を忘れがちになる。

無理は限界に近い状態を言う。

しかし、余裕のある時には、最大の努力をすべきである。

この最大の努力を忘れた時、人は怠惰に陥る。

日々の生活の中において、無理な状態か、

まだ最大の努力が可能かを自らに問いかけながら進むと、

飛躍的な差になって現れる。

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2009年3月 9日 (月)

辛い時ほど、「よし、やるぞ」

人生には、いろいろなことがあるものだ。

めげそうになったり、涙も涸れるほど辛い思いをすることもある。

そういう時に、くよくよしたり、嘆き悲しむことは誰でも出来る。

 神の支えがある以上、歯を食いしばってでも

「よし、やるぞ」と奮起すれば、道は自ずから開けるものだ。

「よし、やるぞ」は、勇ましくて、頼もしくて、

素晴らしい言葉ではないか。

いかなる逆境にもめげず、頑張ろう。

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2009年3月 8日 (日)

辛抱と我慢

辞書によると、どちらも「辛いことや苦しいことを、じっとこらえること」とある。

しかし、その内容は随分と異なることに注意して欲しい。

「辛い」という字は、「十」の上に「立つ」と書く。

 以前に「十」は、縦が燃える火で、横は「水」であり、「カ」と「ミ」で「カミ=神」と伝えたが、つらい辛抱は神の支えの上に立ち、しかも神の懐に抱かれているのである。

だから、辛抱すれば必ず物事が成就するのだ。

 このとき、本当に辛いのは、その人自身よりも、下で支えて下さる神であり、感謝の気持ちを忘れてはならないのだ。

我慢は、いつか仕切れなくなり、爆発しかねない。

我慢より辛抱だ。

**昨日は、3月の小田原定例講演会でした。

今年のテーマは、昨年に引き続き「現代に生かす神道の教え」です。

今回は「三貴神(さんきしん)の謎」の話をしました。

三貴神とは、天照大御神様、月読神様、須佐之男神様のことです。

話をしながらも、日本には目先の「御利益信仰」ではなく、

古来からの日本人の魂に通ずるありがたさが

目の前にあるのだと感じました。

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2009年3月 7日 (土)

溜息は停滞の気を呼ぶ

涙はサンズイに戻ると書く。

溜息の溜めるは、サンズイに留まると書く。

涙のように、戻る所までは行かないが、

そこに留まる以上、前への進歩は得られない。

ハァーとか、アーアという溜息は、

本人としては自然に出るものであろうが、

周囲に対しても、停滞の気しか発しないのだ。

心して気を発するように切り替えが必要だ。

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2009年3月 6日 (金)

すべては自己責任

 一時期、「それは妻がしたことだ」とか、「それは秘書が勝手にしたことだ」などと言い逃れをしようとした閣僚や高級官僚などがいたが、それとて本当は監督責任を逃れることは出来ないのである。

 会社における取締役会をはじめ、合議制の多くは、「みんなで決めたことだから」と、言い訳や責任逃れの口実に使われることが多い。

 しかし、その地位にある者は、常に責任があることを忘れてはならない。

「責任はすべて自分が負うから、君たちが一番いいと思う方法でやってくれ」と言われれば、「そういう上司に責任を負わせては大変だ」と、若い者は奮い立つものである。

 逆に責任逃ればかり考えている上司には、ゴマすり以外は誰もついてはこないものだ。

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2009年3月 5日 (木)

命の根

 私たちは毎日空気を吸い、水を飲み、食べ物を食べて生きている。

その食べ物の中心になるのが、日本人にとってはお米だ。

だから、昔から主食と言われてきた。

このお米は稲から収穫したものだ。

稲とは、まさに命の根のこと。

単に空腹を満たすためではなく、命の根としての力を大切に頂き、今日の力、明日の力を強めよう。

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2009年3月 4日 (水)

藤原大士の一日一言
28話 現代人は忙しすぎないか

社会の複雑化と内容の多様性に、ついつい時間がなくなり、日々を忙しく駆けずり回っている人が、如何に多いことか。

これでは集中した思考は困難であろう。

他方老齢化が進み、物忘れが多くなったと言う。

本当にそうだろうか。

『忙』しいことも、『忘』れることも、いずれも心を亡くしているからではなかろうか。

心に『ゆとり』が欲しいものである。

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2009年3月 3日 (火)

藤原大士の一日一言
27話 願い事は、言葉に出せ

心の中で、願い事を秘めていないだろうか。

しかしそれでは、周りだけでなく、

自分を奮起させることも出来ない。

自分を奮起させるためにも、

願い事は、言葉に出してはっきり言うとよい。

言葉には、「言霊(ことだま)」と言う霊魂が宿っていて、

物事を動かす力が宿っているからだ。

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2009年3月 2日 (月)

藤原大士の一日一言
26話 時の法則

昔は、日の出と共に働き、日の入りと共に仕事を終えていた。

電気やガスという便利なモノが出来たおかげで、夜でも昼のように活動できる。

しかし、すべてを自分の都合で動かそうとすると狂いを生じる。

各人が、自分の都合で日の出の時間を、早めたり遅らせたりすることは出来ないのだ。

自分が日の出の時間に合わせるべきである。

否、合わさせて頂くべきである。

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2009年3月 1日 (日)

藤原大士の一日一言
25話 お風呂の禊ぎ

お風呂に入るとき、掛け湯をして入る。

日本人の礼節だ。それはそれで素晴らしいと思う。

しかし、単なる掛け湯は、体だけの問題だ。

どうせなら「身も心も清まれ」と思って被ってみてはどうか。

心も洗われるように、すっきりと清まる。

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