2011年8月15日 (月)

藤原大士の一日一言 
921話 人の値打ち

人の値打ちは、この世を去るときに定まります。

仏教的には、人の一生の平均値を取りますが、

神道的には、人の一生のうちで、

最もよい点を取ってくれます。

有名な尼さんが、「船に幟旗を立てて、大勢で

共に三途の川を渡りましよう」と言っていますが、

三途の川は、低いところへ行くときに渡るのであって、

いくら有名な方でも、共に参りたくはありませんね。

高いところへ行く時は、中空の雲をかき分けて昇ります。

かぐや姫も、そうして帰って行かれたではありませんか。

普段に何気なく使っている言葉も、影響します。

「命を落とす」とか、「落命」などと言っていると、

これは低いところへ行く時に使うものですし、

「昇天」は天に昇ることです。

一般には、神道では「神上がる」と言います。

どうぞ皆さんも、高い方を目指して、

日々をお過ごし下さい。

★ 今日は、神道のブログも更新しました。

 「第19話 神の子、人」です。

http://soseinippon.way-nifty.com/shinto/

 よろしければ、こちらもどうぞ。

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2011年8月14日 (日)

藤原大士の一日一言 
920話 死んだら全てが終わるのか

親しい人が亡くなった後でも、

お彼岸やご命日には、お墓参りをしたり、

年回忌としての供養をしてきました。

外国の人でも、お墓参には詣でると思いますが、

日本人は、感覚的に人が死んだ後も、

全てが無くなってしまうのではなく、

何かが生きていると

感じていたのではないかと思います。

楠木正成公をはじめ、昔から忠義の臣が、

「魂魄この世に止まりて」とか、

「七生報国」と言って、

七度生まれ変わってでも

初心を貫く意志を表わしました。

肉体は、この世から消えても、

霊魂は永遠に生き続けているということを、

どこかで感じていたのでは、ないでしょうか。

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2010年8月16日 (月)

藤原大士の一日一言 
558話 お盆について

毎年、お盆の時期には、帰省ラッシュが

報道されているが、ふるさとで、

心からの先祖供養をしてこられただろうか。

先祖の誰一人欠けても、

今の自分は存在しえないのだ。

命の尊さと、先祖に対する感謝の気持ちこそが

大切なのではなかろうか。

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2010年8月 7日 (土)

藤原大士の一日一言 
549話 人は、皆尊い存在

お釈迦様は、「天上天下唯我独尊」

と言われたが、

お釈迦様は、

「天上天下において、唯我独りが尊いのだ」

と言われたわけではない。

「天上天下において、人は皆尊い存在なのだ」

と言われたのである。

◆ 天上天下唯我独尊 

てんじょうてんがゆいがどくそん

 

唯我独   ただわれひとり

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2009年8月14日 (金)

藤原大士の一日一言 
191話 三途の川はどこにある

「幟旗を立てて、みんなで一緒に三途の川を渡りましょう」と説法するお坊さんがいる。人は死んだら、必ず三途の川を渡ると思っている人が多い。だから棺に、「六文銭を入れて、三途の川の渡し賃にする」と言われていた。

しかし、それは地獄など低いところに行く人の場合だ。極楽に行く人に、三途の川はない。

「地獄、極楽」と言うが、あの世の行き先は、一律ではない。それはこの世での各人の生き様によって決まるのだ。やはり勧善懲悪は必要のようだ。

    ** 「みんなで渡れば怖くない」とばかりに、この世で悪いことのし放題の世の中だが、人が死んでも、魂は生き続けると知ったら、悪いことの半分以上は、なくなるはずだ・・・  (お盆の時期なので、少し仕事を離れて)

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2009年6月30日 (火)

藤原大士の一日一言 
146話 お釈迦様と悟り

かつてお釈迦様も悟りの境地を求めて、「何年も、難行苦行をされた」と言われている。

しかし・・難行苦行では、悟りは開かれなかったのだ。

自分をいじめて、極限まで耐えたとしても、神経が過敏になることはあっても、それで悟りの境地に達することはできない。

己の自我という殻を破り、大自然と一体になり、大自然との差を取ることこそ、

「差取り=悟り」なのである。

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