2012年5月10日 (木)

藤原大士の一日一言 
1189話 日本語と日本人 

十歳頃までに、日本語で育つか、

外国語で育つかで脳の発達するところが変わる

という人もいるくらいで、

日本語が、日本人の脳や感性に働きかける力は、

想像以上に大きいはずだ。

正しく日本語を使って意志を伝えること、

それが胸に響き、感性に訴えたとき、

今まで気づかなかった感性の目覚めが

ありはしないだろうか。

今日も、どうぞ良い一日を!

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2010年11月18日 (木)

藤原大士の一日一言 
652話 教えることは、教わること

人に教えることは、教わることだ。

人は、十人十色、百人百色だ。

その全ての良さを引き出し、

磨きをかけるのは、至難の業だ。

しかしそれを行う事で、

創意工夫が生まれ、

教える方が磨かれる。

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2009年8月 5日 (水)

藤原大士の一日一言 
182話 インターネットと書物 

今、簡単に情報を得ようとしたら、手軽さ、早さ、便利さでインターネットに勝るものはない。

しかし「情報を得る」だけではなく「学びたい時」には、その人が書いた書物を読む事をオススメしたい。

本はそれを書いた人の考え方が、要約されている事が多い。

そして人間の脳は、光に微妙に反応する。文字の背後からパソコンの光を受けながらでは、知識や表面的な受け取りは出来ても、魂にずしんと来るものは得られない。

じっくり考えたり、深く学ぶ為には書物がよい。

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2009年6月 6日 (土)

藤原大士の一日一言 
122話 盗人の風上にも置けない?

時代劇に出てくる泥棒には、

「殺さず、犯さず、貧しきからは奪わず」という盗人の掟があったとか・・

それから見るとお年寄りの老後の蓄えを 根こそぎ奪うような振り込め詐欺は、盗人の風上にも置けないということか。

「人をだましてなぜ悪い。騙される方が悪いのだ」とうそぶく犯罪者たちは、もはや人の心や魂を失っているのだろう。

キャッシュコーナーで「ストップ」と止める水際作戦も大切だが 幼い頃から、人として行ってはならないこと、行うべきことをはっきりと身につけさせていくことが、根本的な解決として、忘れてはならない。

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2007年2月20日 (火)

教育改革 その2 人生の役に立たない教育は、時間の無駄 

今のような知識偏重の教育と、それを前提とした「知っているか、知らないか」の試験では、社会に出てからも役立つ人にはなりにくい。

 一つの例を挙げてみよう。わが国は昔から寛容の精神に基づく『和を以て貴し』となす国柄である。聖徳太子が唱えたことでも知られている。この伝統に基づいて、大自然の声、神道を中心としながら、仏教も儒教も受け入れて、日本独自の文化にしながら発展させてきたのである。

 ところが、現在の状況はどうであろうか。経営者と労働者つまり労使の関係は対立関係と捉え、政治においても与党と野党は対立関係と捉えて、互いに足の引っ張り合いをしてはいないだろうか。

 異国のように、相生相克の対立概念や、一神教のように「自分の信じる神を信じている者は味方だが、そうでない神を信じる者は敵だ」とする発想を、そのまま持ち込んではいないだろうか。

 どこに伝統としての寛容の精神と和の心が活かされているというのか。この精神と心によれば、労使共に自社の発展のために力を尽くして発展させ、その結果としての業績によって、給与や賞与も後から満たされるということになるのではないだろうか。会社の内部において、互いに対立し、足の引っ張り合いをしていたのでは、到底発展・繁栄は望み得ない。

 政治においても、与党と野党が共に切磋琢磨して日本の国の発展のために尽くすべきであって、互いに相手の言葉尻や弱点を突きあう現状では、国民の信頼に応えることはもとより、国の将来さえ危ぶまれるのである。まして現状のように大赤字を累積していたのでは、本来なら誰も引き受け手はいないはずだ。会社なら当然破産である。

あれこれと言う前に、「もっと真剣に、真面目に国政に立ち向かえ」と言いたい。一個人が当選しようがしまいが、そんなことはどうでもいいことだ。私心を捨てて、公のために尽くす者こそが、政治家としての資質を持つものと言えよう。

 単なる知識ではなく、日本の伝統と精神に基づいて、その意味している本当の心や魂を受け取り、それに則っての政治や経営をして頂きたいものである。

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2007年2月19日 (月)

教育改革 その1  先生は、なぜ要るのか

誰一人「教育とは何ぞや」を論ずることなく、教育基本法の文字面を直して、教育基本法を改正したと言う。一体教育のどの部分をどう改正したと言うのだろうか。

 そもそも「教育とは何か」。「教育とは、教えることではなく、育てることである。育たぬ限り、教えたことにはならないのだ」と思う。また「何の為に教育するのか」と言えば、「生徒一人ひとりの個性を活かしながら、人格を形成するためである」と言えよう。言い換えれば、それぞれの分野において、「立派な人に育て上げる」ことである。

 この原点を忘れた現在のような教育なら、学校の先生などいらぬことになる。文部科学省は、各学年ごとのビデオを作製して、全国の学校に配布すれば、先生の資質云々の問題も解消されるし、生徒は何度でもわかるまでビデオを見ることが出来、先生の「時間がない。忙しい」という言葉も、残業手当の心配もない。

しかし、「先生は要らない」ということを言いたいのではない。今のような、知識偏重の教育なら不要だと言っているのだ。では、なぜ先生が必要なのか。それは「十人十色」と言われるように、生徒一人ひとりの個性は異なるのだから、その生徒の個性、特にその子の天命を見抜いて、その方向に進ませる必要があるからだ。

そのためには、直接生徒と接する現場の先生が必要なのである。したがって、生徒の個性や天命を見抜く力のない先生は、先生としての資格はないのだ。いわゆる「でも、しか」先生でも、サラリーマン先生でも困る。やはり先生は、聖職者でなければならない。たとえ一年間であれ、生徒の人格形成の一端を担う職業だからだ。

 したがって、現行のように「あなたの成績ならこの学校なら受かるよ」という進学指導は、根本的に間違っている。だから、せっかく高校に進学しても、「自分には合わない、面白くない」と言って、一学期で退学してしまうことになるのだ。

 むしろ「あなたは、こういう方向に向いているから、そちらの方向に向かっての学びをするといいですよ。そのためには、今のままではこういう点で難しそうだから、そこを重点的に補いなさい」というのが、先生の役目ではないのか。

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