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2008年4月28日 (月)

私の子供の頃 (7)

 中学生になると、学校の工作室の窓ガラスが汚れているのがなんとも気になって、一人で遅くまでガラス拭きをしたりしているうちに、学校中の窓ガラスの割れも気になりだし、校内の見回りのようなことをしていた時期もありました。

そんな所は当時でも変わり者でしたが、なんとそのうちに、見回りを頼んでくる日直の女の先生まで出てこられ、今にして思えば「先生の職場放棄」なのですが、そうしたこともあってか、卒業式の時には、その他の賞状の他に、特別に『学校功労賞』を頂いたりもしました。

 二年生の二学期からは、毎日朝礼で号令をかけることになりました。運動場の体操台の上に立って行う時は、台が高いからよいのですが、雨天の日に講堂で行う時は、壇上ではなく、その前の低い台の上で行うため、先生方が前にズラリと並ばれますと、当時の私は背が低かったので、皆さんからは私の顔は先生方の陰に隠れてしまって見えず、「ただ声だけが、大きく響いてくる」と大笑いされたものです。

 また、当時は、声が大きかったものですから、先生方からも

 「どこにいても、藤原の居場所はわかる」とか、「藤原と内緒話はできんなぁ」などと言われ、「内緒話なんかする方がおかしいんだ」と、やり返したものです。

 それだけに野球やバレーボールやバスケットボールなどの応援の時には大活躍でした。何しろ運動場の端から端まででも、大音声で響くのですから、負けていた試合も、私が駆けつけると勝った試合がたくさんありました。

 高校生になってからは、父が民生委員や広報委員等を引き受けてきましたが、月一回の会合などは、ほとんど私が父の代理で出ていました。

 それに四才違いの妹の父兄会も、私の高校から近かったせいもあって、何度か私が代りに出席したものです。

 倒産という追い詰められた状態の中で、幼い頃からのことが、走馬燈のように目に浮かび、まるで昨日のことのように鮮明に思い出されてきます。こんなことをあれこれ思い出しながら、自分としては一生懸命努力をし、日々を過ごしてきたはずなのに、どうしてこうなのかと、陰では嘆いたりもしたのです。

 ここに、私の子供の頃のことを書かせて頂きましたのは、大神様より、

「神に仕えるには、怠け者は駄目じゃ。何事にも、身を呈して行う者でなければならぬ。奉仕とは、仕え奉ることぞ」

とのお言葉を頂き、かつ、こうしたことを知らしめよとのことでしたので、あえて述べさせて頂きました。

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