私の子供の頃 (3)九死に一生
戦時中、子供の私も「九死に一生」という体験をしました。
ふるさとは、四国の愛媛県の伊予市です。当時は伊予郡郡中町と言っていました。瀬戸内海をはさんで、ちょうど広島と向かい合っている所です。広島には大本営(当時の日本軍の中枢)があった関係で、アメリカ軍の攻撃もそこに集中していました。
広島空爆の帰りに、残りの爆弾を松山市や伊予市に落としていくのです。自分の真上に落ちてくるように見えたときには、実際にはかなり先のほうに落ちていき、後方に落とされた爆弾は、かえって危険でした。
爆弾だけでなく、機銃掃射で直接狙われる体験も何度もしました。飛行機に乗っている人の顔が見えるほど低空飛行をしてきて、狙ってくるのです。トタン屋根などに当たると、カンカンと物凄い音がします。瓦屋根でも突き破ってくるので、押入れの上側に布団を入れて、下側に逃げ込んだものです。実際に布団の中に弾が止まっていたことが何度もあります。
その頃、父親が所属している満州の部隊が、終戦の年の六月に三つに分けられ、満州残留組と沖縄組と高知組になり、父親は高知に戻ってきました。そこで次の出撃を待っている間に終戦を迎えることになったのですが、まだ戦争中の六月に面会可能という知らせを受けて、母と父のいる高知に尋ねて行きました。
ところが切符も途中の観音寺駅までしか手に入らず、その駅から引き返すように言われたのですが、それでも「母さん、歩いてでも行こう。父さんに会いに行こう」としきりに言い、当時の子供の足では到底いける距離ではなかったのですが、その熱意にほだされて駅長さんが切符を特別に出してくれました。
阿波池田で一泊して高知市に向かったのですが、後免という駅と伊野という駅の名前を記憶しているのですが、父の部隊と言うのは名ばかりで、民家を借り受けての分宿状態でした。その夜高知市が空襲にあい、出発前に松山市の空襲を見たばかりだったので、またかという感じでした。
二三泊して、父の軍長靴をはいてはしゃいでいたことを思い出します。帰りの切符はわけなく手に入り、軍隊ってすごいところなんだなあと思った記憶があります。帰りに松山の少し手前で空襲警報に会い、三津浜駅で全員列車から降ろされました。はじめは一杯だった人の群れもいつの間にか少なくなり、疲れてベンチで転寝をしているときに機銃掃射に合ってしまいました。
幸いにして私は寝相が悪く、寝返りを打ったときにベンチから転がり落ち、それを起こそうとした母も立ち上がったちょうどその時に機銃掃射がきました。
ベンチで私の隣にいた人は、私の目が覚めたときには死んでいました。もし、私が転がり落ちなかったら、私も母も隣の人のように即死していたはずです。人の運と言うか運命と言うものはわからないものです。
「命のありがたさ」を感じるというよりも「当時は必死で生きていた」のです。
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