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2008年4月27日 (日)

私の子供の頃 (6) 昭和の尊徳さん

 終戦後に父が復員してきてからも、店を新しく立て替えるということで、大きな料亭の倉の二階を借りて住み、そこで弟妹に食事をさせてから両親のところへ弁当を届け、それから学校へ行ったり、炊事洗濯の一切をした時期もありました。

面映いことですが「昭和の尊徳さん」と称される一方、「継子と間違えられた」と、後年母が苦笑したりする時期もありました。

 この時に、南海地震があり、私の町も古い家は倒れ、死者も数名出ました。私達が借りていたところは、立派な倉でしたので、直接の被害はありませんでしたが、階段がはずれてしまつたので、外の人にはしごをかけてもらうまで、身動きが出来ませんでした。

 それから間もなく、この倉で、末の妹が生まれたのです。

 私は、生れて間もないこの赤ん坊だった妹を、小学校の教室に連れて行ったこともあります。

この妹を、私からは叔母にあたる父の妹の子にするという話が、妊娠中から両親とその叔母との間になされていたようでした。その気配を察したときに、私にとっても可愛い妹なのですから、「妹をやるのは嫌だ」と言って、強硬に頑張ったのです。

 そうは言っても、私が学校に行っている間に、その妹を連れて帰られては大変です。だからそうされないように、学校におぶって行ったのです。教室の隅に寝かせたり、背中におぶったりして、授業を聞いたものです。授業中に泣かれて困ったこともあり、またおしめをかえたりもしましたが、今になって考えてみますと、よく先生が許してくれたなと思います。

 本当は親の決めたことに、小学生の子供が逆らうことなど出来ないはずですが、私の態度があまりにも強硬だったので、ついに両親も叔母もあきらめてくれました。その妹が、のちに両親とともに暮らし、晩年まで面倒を見てくれることになったのです。

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