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2008年7月 5日 (土)

神様おかかりの意味

さて、そうは申されましても、私にはこれから先どうして行けばよいのか、大神様

がついておられるというのはどういう意味なのか、さっぱり見当もつきません。

 今迄は、ただひたすら、大神様を求めて、「本当の神様に逢いたい」、「お逢いしたい」と念じ続けて参りましたが、いざ大神様にお逢いし、大神様の方からお役目を頂くということになりますと、ただただ面食らってしまうばかりです。

 しかし、大神様を求め続けるということは、大神様にお逢いした時には、「何をさせて頂くのか」、「何をしたいのか」ということは、本当は前もって考え、覚悟しておかなければならないことだったのですね。

 その点、私はうかつにも、本当にうかつにも、考えが及んでおりませんでした。

 「今の世は、どこかおかしい、どこか狂っている」

 どこがどうとは分かりませんでしたが、

 「本来神の子である人々が、このような生活をしなければならないはずがない」

 等と、漠然としたものは感じておりましたので、ひたすら大神様を求めて参りましたが、だからと言って、大神様にお会いできたら、「ああしよう」とか、「こうしよう」とか、「こうしなければ」などということは、考えていませんでした。

 もっとも、人々が金にあくせくしていることにはむなしさを感じ、「どうせ人の世を終った時に持って行けないようなものは、なまじお借りしているよりも、お借りしていない方が返す手間が省けていい」くらいに思って、家にも固執せず、また金を溜めることよりも、人々に役立つことならばと、喜んで何でも差し上げるような処があり、処世術からすれば、今時大変なお人好しと言いますか、損な性分だということになるのですが、自分でも、「今の世だからこそ、私のような変り者が一人くらいいてもいいでしょう」と、笑って過ごしておりました。

 また、「日本中が、自分の庭だから」などと、毎年一週間から十日ほど旅行をするのが、唯一の楽しみでもあったりしたものです。

 そうして、実際に庭の修理・管理をしに行くくらいの積もりで出かけますと、いろいろなことが目に留まり、また心にも深く感じられるものです。それに、行く先々の処がいとおしく、かつ、愛情をもって自然に接することが出来たように思います。

単なる通り一ぺんの観光とは異なり、「ここはこうしたらいいだろう」とか、「このようにあって欲しい」などと、事細かなところにまで、よく目が行き届くようになります。

 

すると、次々と新しい発見が出来るのです。大神様は、「大自然より学べ」と、よくおっしゃられますが、そうした下地は、こうした時に、すでに十分頂いていたように思います。

 人は、常に、何事も、次の開けのための準備をしているのです。

 自分では、随分と回り道をしたように思えることでも、その回り道によって得た体験があったればこそ、今日こうして、皆さんのご相談やお話をさせて頂くことが出来るのだと思います。

 「ああ、あの時ああいう体験をさせて頂いたのは、このためであったのか」と思われることが、次々と出て参ります。

 ですから、皆さんも、いかなる環境、いかなる境遇にあっても、またいかなる困難に出会っても、それに負けることなく、打ち勝って欲しいと思います。

 そうした場面に出会った時、そこで皆さんがどう思い、どう行動されるか。それが、次のステップへの分かれ道なのです。

 そうして、今までは、自分の判断で、「こちらにしようか」「あちらにしようか」と、迷いながら決定をしておりましたが、神様におかかり頂きますと、「こちらに行けばどのようになる」、「あちらに行けば、こうなるぞ」ということが、おおよそのところとは言え、判断がつくようになって参ります。

 すべては、神様のご意志のままに過ごされることが大切なのです。自分の我を通そうと致しますと、自分の心はもちろんのこと、周囲にも濁りを生じさせることとなり、世の中に汚れや穢れを撒き散らし、やがて世の中の乱れにまで通じかねません。

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