私は自動車の中に乗っていたので、実際の高さは知り得ようもありませんが、二メートルか三メートル上昇したところで、急にタイムスリップをして、まるでスロービデオを見ているような感覚になって、今度はゆっくりと前へ移動を始めたのです。
そして、今、自分が本来滑り落ちるはずであった川の上を、ゆっくりゆっくりと進んでいるのです。私は、両手でしっかりとハンドルを握ったまま、身を前に乗り出して、その川底を覗いているのです。そして、そのことを自分自身が意識しているのです。恐怖感などまったくない、非常に不思議な時間でした。
やがて、車は向こう岸の上にやってきました。そこは、やっと自動車が一台通れるくらいの道が、川に沿って走っていましたが、私の車は川を横切って渡ったかっこうになっていたので、丁度その道を直角に横切る形になっていました。
すると、今度は自動車が真っ直ぐ下へ降り始めたのです。その時、やはり人の心というものは弱いと申しましょうか、微妙と申しましょうか、
「ひょっとしたら、助かるのかな」
と、こんな思いが脳裏を掠めたのを覚えています。
しかし、次の瞬間には、後五十センチくらいで地上というところで、今までのタイムスリップが解けて元の時間帯となり、「夢ではないぞ」と言わんばかりに、勢いよくドスンと、地上に叩きつけられたのです。そうして、これが証拠とばかりに、右側後部のタイヤだけが、パンクしていたのです。
車を降りてみると、驚いたことに、前も後ろも、十センチ余りを残しているだけで、ピタリと止まっていたのです。
ふと振り返ると、後ろから来ていたタクシーの運転手さんが、川を隔てた元の道路に車を止めて、車に身を持たせかけながら、さかんに「あ・・、あ・・、あ・・」と言っているのです。
しばらくして、ようやく声になった言葉は、「あんた、よくここを飛び越えられたね」ということだったのです。運転手さんは、声だけでなく、足もガタガタ震えていたので、車に身を持たせかけていたのでした。
「とてもとても、この川を飛び越えるなんてことは、スタントマンの方だって、出来っこありませんよ」と、思わず口に出そうな気持ちでした。だって、向こう岸は土手になっていて、その先は田んぼなのです。
放物線のように弧を描いて飛び越えたら、土手の上の道に直角にピタリと止まるなんてことは、とても出来るものではありません。勢いに乗って、今度はどてを滑り降りるか、直接田んぼの中に飛び込むか、いずれにしても車は田んぼの中ということになる筈です。
これは神業としか言いようがありません。そうなのです。これは神業です。丁度車が上昇し始めた時に、そのことを感じたのです。神様か仏様か、何かの力が私を救って下さっていると。瞬間には、弘法大師様かなとも思いました。
それは、万が一にも、高校生の生命を奪うようなことがあってはならないという思いで停車させたことが、おそらくご神意に叶ったのでしょう。
もしこれが、逆に高校生の列の中に突っ込んでもいいというようなことを思ってしたのであれば、おそらく私が生命を失う羽目になっていたことでしょう。
車の前方の中心より右側は土手になっていて、その先は田んぼなのですが、幸いなことに、左側は三十センチくらいの段差があるだけで、その先は広場になっていたのです。
タクシーの運転手さんは、近くの小屋から、長くて幅広で部厚い板と、四角い柱を持ってきてくれ、柱の方を左前輪に合わせ、板の方を右前輪に斜めに入れて下さったので、ゆっくりとその広場に車を移動することが出来たのでした。
親切な運転手さんは、近くの修理工場まで案内してくれました。その工場の社長さんは「〇〇のカーブかい。俺は、二年前にあそこで、正面衝突やっちゃったよ」ですって。そこは、魔のカーブだったのですね。
もっとも、私はその翌日、私の信奉する九州は熊本県阿蘇郡蘇陽町大野に鎮座されています幣立皇大神宮に参拝することになっていたのです。ですから、、そのご加護によるものであったのかも知れません。