2008年4月29日 (火)

母の霊感

 私の母は、ある種の強い霊感を持っていました。

 戦後間もなくの頃、「今日、東京の叔母さんが来るよ」と、朝食の時に突然言い出し、それ迄何の音信もなかった父の叔母だけに、父も私達も、「そんなバカなこと」と笑っておりましたところ、夕刻になってひょっこりと、本当にその叔母が訪ねて来たり、ある意味で予感というのでしょうか、いろいろなことがよく当たるという面がありました。

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2008年4月28日 (月)

私の子供の頃 (7)

 中学生になると、学校の工作室の窓ガラスが汚れているのがなんとも気になって、一人で遅くまでガラス拭きをしたりしているうちに、学校中の窓ガラスの割れも気になりだし、校内の見回りのようなことをしていた時期もありました。

そんな所は当時でも変わり者でしたが、なんとそのうちに、見回りを頼んでくる日直の女の先生まで出てこられ、今にして思えば「先生の職場放棄」なのですが、そうしたこともあってか、卒業式の時には、その他の賞状の他に、特別に『学校功労賞』を頂いたりもしました。

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2008年4月27日 (日)

私の子供の頃 (6) 昭和の尊徳さん

 終戦後に父が復員してきてからも、店を新しく立て替えるということで、大きな料亭の倉の二階を借りて住み、そこで弟妹に食事をさせてから両親のところへ弁当を届け、それから学校へ行ったり、炊事洗濯の一切をした時期もありました。

面映いことですが「昭和の尊徳さん」と称される一方、「継子と間違えられた」と、後年母が苦笑したりする時期もありました。

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2008年4月26日 (土)

私の子供の頃 (5)信じられるものは何?

私は、小学校四年生で終戦を迎えました。

大人だけでなく子供も、皆それぞれの形で、大きな時代の変化を感じながら日々を過ごしていました。

特に戦争中毎日のように、「最後の一人になっても戦え」「米英鬼畜」と教えていた同じ先生の口から、終戦の翌日に正反対の「右のほほを打たれても、左のほほを出せというよ」と言われたときには、何を信じたらいいのかが分からず、今まで「絶対」と信じてきた教師が実は信じられない存在であったというのは、大変なショックでした。

そして昨日まであんなに毅然として自分たちに向かっていた先生が、突然腑抜けのようになってしまったことにも、「なぜ?」と言いようのない思いでした。

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2008年4月25日 (金)

私の子供の頃 (3)九死に一生

 戦時中、子供の私も「九死に一生」という体験をしました。

 ふるさとは、四国の愛媛県の伊予市です。当時は伊予郡郡中町と言っていました。瀬戸内海をはさんで、ちょうど広島と向かい合っている所です。広島には大本営(当時の日本軍の中枢)があった関係で、アメリカ軍の攻撃もそこに集中していました。

広島空爆の帰りに、残りの爆弾を松山市や伊予市に落としていくのです。自分の真上に落ちてくるように見えたときには、実際にはかなり先のほうに落ちていき、後方に落とされた爆弾は、かえって危険でした。

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2008年4月23日 (水)

私の子供の頃 (2)

小学校の一年生の秋祭りからは、母の里へよく行ったものです。一時期などは、毎週のように、土曜日になると出かけて行きました。

祖父が草履を編んでくれたり、祖母が囲炉裏で焼き芋をしてくれたりするのが、楽しみだったのです。母の里は、駅を降りてから、四キロも山道の田舎道を歩かなければなりませんでした。

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2008年4月22日 (火)

私の子供の頃 (1)

今日から、私の子供の頃の話をしたいと思います。

私自身が、現在色々な方のご相談をお受けするにつけ、その人が「いざという時、追い詰められた時に、乗り切れる力」は、どうも「子供の頃にその基礎がある」のではないかと感じることが多いからです。

「自分が、なぜその時(倒産)を乗り切れたのか」いえ、乗り切れただけでなく、その機会を通じて「神様に対しての道を開くことが出来たのだろうか」

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