お釈迦様のお伝え(4) お釈迦様は、真実を知っておられた
また、大日如来が天照大御神であり、阿弥陀如来が八幡様で、薬師如来が春日様であるなどと、本地垂迹説なるものが云々された時代もありましたが、これは縦の神々様がお留守になられたので、縦と横の十字を九十度右回転させたために、横であったものが縦になり、縦であったものが横になった状態を指して言ったものです。
また、大日如来が天照大御神であり、阿弥陀如来が八幡様で、薬師如来が春日様であるなどと、本地垂迹説なるものが云々された時代もありましたが、これは縦の神々様がお留守になられたので、縦と横の十字を九十度右回転させたために、横であったものが縦になり、縦であったものが横になった状態を指して言ったものです。
それはまさに大自然そのものという感じであり、だからこそ悟りの境地と感じたのでしょう。場面はどんどんどんどん出て来て解明されるのですが、なるほど『神様の世界は念の世界』と言われるように、言葉ではなく、ただその時に通ずる奥のところ、自分の身体の中でも奥のほう同士で通じ合うような感覚でした。
家内は、後から、「今でも、あの時なぜ悟りを開いたようなお方と感じたのか、よくはわからない」と言います。
では「何で悟りと感じたのか」と聞くと、「深山幽谷の樹木が発する木の気というもの、でも俗に言う森林浴の空気の感じとは全く異なるもので、そう感じたのだ」と言います。
弘法大師様がお出ましになられてからしばくして、大変に苦しんでおられるご様子のお坊さんが、次々と助けを求めて出てこられました。ところがお伝えを聞いていると驚くことに、人の世では名僧・高僧と呼ばれるような方々まで、そこに何人もおられるのです。「なぜこのようなご高名な方が?」とはじめは大変不思議に思いました。よく伺ってみると、弘法大師様の即身成仏を真似て旅立たれた方たちだったのです。
「頼みますよ。あの山は、あの山は、あんな山ではありません。高野の山と、高野の山と同じように、同じように、わたくしが、あそこに一つの庵を開いた時のように、どうぞ、どうぞお願いを致します。どうぞ、どうぞお願いを致します」
「そのように、努めさせて頂きます」
「有り難うございました」
「ほんとうに、ほんとうに有り難うございます」
「こちらこそ・・申し訳ございません」
「よろしくお願い致しますよ」
「こちらこそ、よろしくお願い致します」
「有り難うございます。あなた方は、大神様のもとを、決して、決して、離れてはなりません。どんなに苦しい時や、どんなに悲しい時も、大神様のもとで、師と共に歩んで下さい。
「そんなことはございません。いにしえに、わたくしは、わたくしよりお年のお若
い海阿闍梨様に、師弟の労をとりました。知っている者が、知らない者を教え導くことが大切なのですよ。どうか、物覚えが悪い」
「とんでもございません」
「理解力もない、こんなわたくしですが、一歩一歩導いて頂けますね」
「恐縮です。こんな私でよろしければ・・」
そして、勧学生として、時の帝のお力により、大切な勉学をさせて頂き、この日の本の国に帰って参りましたが、わたくしのあとからお戻りになられました海阿闍梨様の御請来目録(ごしょうらいもくろく)を見て、わたくしは非常に驚きました。
わたくしの持ち帰りました法華の教えよりは、もっともっと奥が深く、もっともっと意味ある教えであったのでございます。