2012年5月28日 (月)

第59話 念と言霊 その2 ノイローゼのコンピュータ技師を立ち直らせた話 

前回の第58話で、「念と言霊 言葉は、壁に残っている」の話をしましたので、

今日は、本当に残っていたんだという証になるノイローゼのコンピューター技師を短期間で立ち直らせた時のお話しをご紹介します。

銀行などの大がかりなシステムの切り替えの時は、専門の人は何ヶ月も深夜まで続く作業になるそうで、残業も多い代わりに、収入も多い。

残業をすればするほど、収入にも繋がるので、初めのうちは皆張り切って行なっていたそうです。しかしそれが何ヶ月も続く間に、段々体調や、精神的に参ってくる人が増えてきて、中にはノイローゼ、鬱病の診断をされる人が増えてきたそうです。

段々それがひどくなり、プロジェクトの推進にも影響するほどになったとき、その中の最も無断欠勤の多い人を、「もう、あいつはクビだ」とついに社長が耐えかねて言い出しました。社長からすれば、依頼された期間までに切り替えなければならないところに、これでは全く予定が立たないわけです。

しかしその人の上司、たしかその当時は室長だったと思いますがその人が「ちょっと待って下さい。対処しますから。」と言って、以前から時々見えていた私の所にその人を連れてきました。

その方から見れば、「他の理由でのクビならばともかく、『鬱病で無断欠勤のため』では、その人が再就職する場合でも、この先何処も採用してくれないだろう。何ヶ月も一緒に働いてきた、まじめな人なので、何とか治してやって貰えないだろうか」といってきたのです。

その人は、向き合って座ってもほとんど顔も上げないままで、正直言って暗いです。ですからいきなり体調のことなどは聞かないで、まずほんのわずか世間話をして、相手の人の気持ちをほぐして、少し相手の方が顔を上げはじめた頃を見計らって「ところで、あなたは何処が悪いのですか」とお聞きしました。

相手の方は、間髪を入れずに「僕は、鬱病です」と言うのです。

「えっ、鬱病?あなたは鬱病のように見えるけれども、決して鬱病ではないですね。」と言いましたら、「いいえ、れっきとした鬱病です。病院で三カ所も鬱病という診断をもらいました。」とその時はきっぱりと言い切るのです。

「そうですか。ところであなたはどうしたいのですか。会社では、クビだと言っているそうですが、鬱病でクビでは、この先何処にも再就職できませんよ。」

と言うと、彼は、うつむいたまま、ずっともじもじとしていました。

「あなたは、れっきとした鬱病なんかではありませんよ。鬱病に近い症状は出ていますが、鬱病ではありません。騙されたと思って、私の言うことをちゃんとやってみますか。」

相手の方は、その時は顔を上げて「はい」と返事をしたので、

「神道では、『念と言霊』と言って、本当に心を込めて、本心から言葉に出したときには、その力がその通りに働くのです。ですからこれからお教えすることを本気で本心から言葉に出して下さい。必ず変わりますからね。

明日の朝、会社に行ったら仕事を始める前に、自分の机とコンピューターに向って、『おはようございます。今日もよろしくお願いします』と言いなさい。

ただ言えばいいと言うのではないのですよ。自分がそう思う事が先ですからね。」と言うと、彼は、きょとんとした顔をしていましたが、それでも「はい」と言って帰って行きました。

翌日、仕事を終えてからやってきて、「やりました」と言いました。「感じは、どうでしたか」とお尋ねすると、「感じは分からなかったですが、何となく仕事は出来ました」と言います。

それまでのように、途中で家に帰ってしまったりはせず、一日なんとか仕事が出来たようです。

「では明日は、自分の机だけでなく自分の両隣の机とコンピューターにも同じ事を言いなさい。」

と伝えると、翌日も仕事を終えてからやってきて、「やりました」と言う。

はじめにつれて来られたときよりも、少し明るい顔になっています。

「ところで君の上司は、普段からガミガミ言っているのじゃないかね。」と聞きますと、彼はその通りとばかりに大きく頷いて「そうです!」と力が入ります。そのことが彼にとって、かなりの精神的な苦痛になっているのだなと感じましたので、

「では自分の机と、両隣の机に加えて、ガミガミ言う上司の机とコンピューターにも、おはようございます。今日もどうぞよろしくお願い致します。と言いなさい。」と言うと、

「あの人の机に・・ですか?」と聞かれましたので、「そうだよ。特別に気合いを込めて『おはようございます。今日もよろしくお願いします』と言いなさい。」と答えると、彼は素直に「はい」と言って帰りました。

翌日は、幾分胸のつかえが取れたような顔をしてやってきました。そこで、

「明日は、少し大変だけれどね。お部屋の全員の机とコンピューターにも一つひとつ言いなさい。100人以上いると言うことだけれども、途中で気を抜かないで、一つ一つていねいに言いなさい。」と伝えました。

それが金曜日でしたので、二日間は土日で来ないのだろうと思っていたら、月曜の夕刻になっても、火曜の夕刻になっても来ませんでした。水曜日の夕刻になって、彼を連れてきた室長が息せき切って飛び込んできました。

そして「先生、彼に何をしたんですか!」と言ってきました。

「どうしたの。何かあったの」と聞きましたら、

「昨日、社長がやってきて全員を集めて、どうするのが一番いいかと皆の意見を聞きました。やはり体調を崩したり、ノイローゼになった人が多いので、皆さんの立場からしたらどうしたらいいかという問いかけがあったのです。正直このままでは期限に間に合わせるのは、かなり難しいですから。

そうしたらクビだと言われた彼が、何人かのグループにして、それぞれがその班ごとに成果が出るようにしたらどうでしょうか。今は、一人一人がそれぞれのノルマを抱えてコンピューターとだけ向き合っています。皆その状態で朝から晩までやっているのですから、精神的に切れたり耐えきれなくなったりするのです。グループ毎にして打ち合わせをしながら、成果を上げていったらいいのではないですか。」という意見を言いました。

早速十いくつかの班を作って、彼をその中の班長にしました。

『クビだ。』と言われていた彼がです。」

ただ言葉だけでは、人は動かないけれども、本当に心を込めて行なったときには、人の心だけではなく、機械をも動かすことが出来るのです。だからどう思って言葉に出すかが大事なのです。彼はそれを本気で素直に行なったから、こうした変化が出たのだと思います。

今日の一日一言 1207話 原因と結果 現象と大元

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2012年5月21日 (月)

第58話 念と言霊  言葉は壁に残っている

毎日口にしている言葉、言った途端に消えて無くなるものと思ってはいませんか。

平気で言いたいことを言う人は、「自分は、口は悪いが、腹には残さないタチだ。」などと、言いわけをしがちですが、言われた相手の心にはグサリと残っていることがあります。

時に「何年も前に言われたあの言葉で、本当に傷ついた、落ち込んで立ち直れないほどだった」と言われて「えっ、あんなに前のことを、お前はそんなに根に持っているなんて・・」

それも覚えておいて欲しいことは、ころっと忘れられて、何でそんなことをと思うようなことをしつこく覚えられている・・

毎日飛び交う言葉、使わないで済ませられる日はないのに、知らずに使っている言葉が、案外自分の足かせになっていることがあります。

「言ってはならない一言を言ったばかりに、絶交になった」

これも以後、ほとんど収拾がつきませんので、本当に怖いですが、「毎日繰り返され、少しずつ蓄積されていく言葉の威力」は、案外無視されています。

しかし、気付いていないのではなく、「あの上司の顔を見ただけで、胃が痛くなった」「○○さんのキンキンした声を思い出すだけで、うんざりする」などと、実は「嫌悪感」としてけっこう反応しているのです。

言葉は、口にした途端に消えて亡くなるものと思っていますが、実はたばこの煙が、しばらくすると空気中に消えて無くなるように見えて、まわりの壁にヤニとなって残ってしまうように、言葉も周囲の壁に残っているものなのです。

最近は、受動喫煙の防止などで、新幹線やレストランなどでも喫煙席、禁煙席に分かれるようになりましたが、職場などではなかなかそこまで徹底出来にくいのか、年末などに大掃除をすると、拭いた壁の色が掃除前と変わるほどに、べっとりとヤニがついていることがあります。

掃除したときは、その汚れにうんざりして、「こんなに汚れていたのか」と驚きますが、日々発している言葉も実は同じように蓄積しています。

自分達の発していた言葉が、こんなに周囲に残っていたのかと、もしその声が聞こえたら本当に驚ろかれると思いますが、その部屋にいると、そこの壁に残っている言葉の影響を少なからず受けてしまいます。

年中ガミガミ言う上司の所では、胃腸の具合の悪い部下や、ノイローゼになる人が出やすいと言われます。実は、怒鳴っている上司の方も本当は「そこまで言うつもりはなかった」と密かに思っているのです。

ところが注意しているうちに、段々とエキサイトして、「これでもか!」というほどに怒鳴ってしまい、止めようがなくなってしまうようです。

それは注意している間に、時間が経つと周辺の壁に残っている「過去に吐いたののしりの言葉」と反応してしまうからです。だから「なんであんなに怒鳴ってしまったのだろう」というほどに相手を責めたり、罵ることになってしまうのです。

それを取り去るには、一つには油絵の絵の具を塗り重ねていくように、日々いい言葉をなるべく出していくことです。しかしこれは周辺に「悪い言葉・責める言葉・ののしりの言葉」などが、たくさん残っているときには、結構努力がいります。

言葉は、自分一人で出来るのではなく、会話ですから相手とのキャッチボールで成り立ちます。自分がどんなにいい言葉を出そうとしても、それを片っ端から否定されたり、罵られて、自分の気持ちが沈んでしまう事もあるからです。

ですからいい言葉、いい環境をその部屋の中に作りたいときには、朝一番が勝負です。会社であれば、その部屋に一番乗りして、可能であれば窓を開けて昨日の空気と入れ換えてから、(窓を閉めて)誰もいない部屋に向って、明るく「おはようございます!」と言います。

はじめは気恥ずかしくて、「何でこんな事しなければならないのだろう」と思うかもしれませんが、これはやったが勝ちです。やってみなければ分からない事ですが、いい環境で、良い仕事をしたいと思えば、今までのイライラ、セカセカから発した相手を罵る言葉に囲まれて過すマイナスから、早く切り替えて、いい言葉からなる「やる気、元気のプラスの環境」に変えていく事が本当に出来るからです。

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2012年5月14日 (月)

第57話 大宇宙創世の神様 大神様のご存在

私は、長いこと『大宇宙創世の神様 万物創成の神様』を求めていました。

しかし富士古文献(宮下文書)・竹内文書・上記・九鬼文書・秀真伝・東日流外

三郡史等いわゆる古史古伝と言われる書物にも、一様に『大神様』と言う文字が出て来ます。しかしそこに出てくる神様は、なぜかピンときませんでした。

そこで「お名前は分かりませんが、根源の神様 大宇宙創造の神様」と毎日のようにお呼びかけをし、そして日が経つうちにその思いを念じながら「大神様」と申し上げるようになりました。

ここで、『大神様』と申し上げますのは、『神漏岐大神様』と『神漏美大神様』のことです。一般には、この神々様は、『神漏岐命』・『神漏美命』と言われています。なぜ、この『神漏岐大神様』と『神漏美大神様』が、『大神様と言えるのでしょうか。

『神漏岐大神様』と『神漏美大神様』が、『大神様』であると気付かせて頂いたのは、ある日の御祭で祝詞を奏上しているときでした。奏上した文言の中に、心に「あれ?」と引っ掛かるものがあったのです。

この祝詞は、一般には『大祓の祝詞』とか『大中臣の祝詞』と言われている祝詞です。私もみ祭り毎に奏上させて頂いていましたが、それまではそれほど気にも止めておりませんでした。しかし、その時は、何故か気になって仕方がなかったのです。

 御祭を終えてから、今一度気になったところを読み返してみたのです。

 

 『高天原に 神留り坐す 皇親神漏岐 神漏美の命以て』

 と、始まります。

 ですから、一般には、『神漏岐命様・神漏美命様』というようにお呼びしております。私の心に引っかかったのは、この点だったのです。

 『命』と申しますのは、本来「神様のお言葉をお伝えされる方のこと」を言うのです。『御言葉(みことば)を伝える方』を略して、『御言(みこと)』と申し上げるようになり、やがて『命(みこと)』の字が当てられるようになったのです。

 それはともかくとして、私達が言っております『命様』は、神様の下にお仕えして、神様のお言葉を伝え、神様のご意志にしたがって行動されるお方、ということになります。

 

ところが、この祝詞によりますと、その次に、

『八百万の神等を 神集へに集へ賜ひ 神議りに議り賜ひて』と続くのです。

「はて?」

おかしくないでしょうか。

私は、かつて内閣国防会議事務局というところに勤務をしたことがあります。現在の内閣安全保障室というところです。

その時に、「国防会議を開いて欲しい」というときに、その書類をもって各大臣の所へ回ります。だいたい各省庁の官房長の所に直接届けに参ります。私が「い

ついつの何時に集まりなさい」という書類をもっていきますが、私の権限で集めるわけではありません。

「内閣総理大臣 佐藤栄作」とちゃんと名前が書いてあって、印鑑を押したものを届けに行くのですから、集めたのは「内閣総理大臣 佐藤栄作」です。私はそれをもっていくだけで、いわば『命』の役目をするだけです。

お集めになるのは内閣総理大臣です。そうしたことが頭の中に浮んできたのです。

 それにもかかわらず、この祝詞によりますと、『神漏岐命様・神漏美命様が、八百万神様をお集めになられ、審議をさせられたということになってしまうのです。

 神様の、いわば御使いをなさられる命様が、八百万神様をお集めになり、審議をさせた、ということになります。それは、つまりお使いをした私が国防会議を招集し、審議をさせた、というのと同じことになってしまうのです。

 これは、どう考えてもおかしいではありませんか。法律を専門にしていた持ち前の理屈屋の顔が覗き出して来ました。

 

そうして、ここに書かれております『命』という文字は、『神漏岐命様・神漏美命様』という意味ではなく、次の『命以て』にかかるものであり、それは文字通り『命令を以て』とか、『命令によって』という意味に解さなければならないのではなかろうかと考えたのです。

 そうして、それならば、と思った途端に、思わず、

 「大神様だ!」

 と、大声をあげてしまったのです。

 八百万神様にご命令出来るのは、大神様以外にはおられないはずだからです。そうして、その時に、はからずも、

 「よくわかったな」

 と、荘重で重厚なるお声が、聞こえてきたのです。

 驚きとともに、厳かなるお声に、思わず平伏してしまいました。

 お言葉と致しましては、たった一言でしたが、感応によって、このお方こそが、私が日々『大神様』とお呼びして、求め続けて参りました、大宇宙のすべてを束ねておられる、大根源の神様であらせられると、瞬時にすべてを解し得ることが出来たのです。

 その時は、全身が震え、ひたすら平伏しておりましたので、ただ感動したとか感激したなどという生易しいものではなく、まことに筆舌し難いものでした。

 そうして気がついた時には、眩いばかりの黄金の光の中にいたように思います。大神様ですから、当然のことではありますが・・・。

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2012年5月 7日 (月)

第56話 出雲大社と熊野大社の関係 

私の疑問から明らかになったお話を続けます。

大国主神様をお祀りしている出雲大社では、大きな行事をするときに、熊野大社から忌火(いんび‥木と木を摺り合せて起こす清らかな火)を頂いてから行うと言われています。

「忌火なら、出雲大社でも起こせるだろうに、なぜだろう」というのが、私の疑問でした。一般に熊野大社と言いますと、紀州を思い出されると思いますが、出雲にも、八束郡八雲村、今は松江市八雲町にもあるのです。

そこで、出雲大社にも熊野大社にも「なぜですか」とうかがったのですが、どちらも「昔からの古い古い伝統でそうしているのです」というお返事で、理由については一切お答えがありませんでした。

自分の興味だけで神様にお伺いすることは致しませんが、「神社に伺っても、理由は分りませんでしたので、お教え願えませんでしょうか」と、改めてお伺いすると、次のようなことを教えて頂いたのです。

これは「因幡の白兎」の話の中にヒントがありました。そして熊野大社、昔から熊野権現と呼ばれていることに大事な意味が隠されていたのです。それをお話ししたいと思います。

皆さんは、因幡の白兎の話をご存じでしょうか。ほとんどの方は子供の頃に呼んだ、日本神話などにも出て来ますので、ご存じの方が多いと思いますが、簡単にご紹介します。

「だいこくさま」という唱歌の中に「大きな袋を肩に掛け」と大国主神様(別名 だいこくさま)が歌われていますが、それは大国主神様の大勢のお兄様が、因幡の八上比売(やかみひめ)をお嫁様にしたいと出かけられた時に、お兄さん達のたくさんの荷物を大国主神様お一人で担いで後から歩いて行ったときの姿です。

 

お兄さん達が、気多の岬にさしかかったとき、皮を剥かれて、丸裸になった兎が横たわっていました。お兄さん達は、それを見て「海水を浴びて、山の頂に横たわり、風に吹かれると良い。そうすると良くなるぞ」と口々に兎に言いました。兎がそのようにすると、海水が乾くに従って、痛みが治まるどころか、皮膚が風に吹かれてひび割れて、ますます痛みがひどくなり、もがき苦しんで泣き伏していたところに、大国主神様が通りかかりました。

大国主神は、兎に「どうしてそんな姿になったのだ」と尋ねると、兎はこう話しました。

「私は、於岐(おき)の島にいて、この本土に渡りたいと望みましたが、渡る手立てがありませんでした。

そこで海の鮫を騙して海を渡ってやろうと考え、鮫たちに向って『私達兎の仲間と、あなたたち鮫の仲間の、どちらの同族が多いかくらべっこをしよう。お前は同族のありったけを連れてきて、この島から向こう岸の気多の岬までずらり伏し並べたら、私がその上を踏んで、走りながら数えてあげる。そうしてどちらが多いかを知ることにしよう』と言ったところ、鮫はそれを信じてずらりと並びましたので、私はその上を踏んで数えながら渡ってきて、対岸(本土)に渡ることが出来ました。

そして地上に降りようとした時に、つい口が滑って、鮫たちに『やーい、お前たちは騙されたのだ』と言ってしまったのです。その瞬間に一番端にいた鮫に私は捕えられて、すっかり私の毛皮を剥ぎ取られてしまったのです」と事情を話しました。

苦しんでいたところを、先に行きました大勢の神々が『海水を浴び風に当たって横たわっておれ』と言われたので、そのように致しましたところ、私の身体の痛みは益々ひどくなってしまいました」と申し上げたのです。

これを聞いた大国主神は、「そんなことをしたら痛むに決まっている。今すぐに河口に行き、真水で身体を洗い、そのままその河口の蒲の穂を取って敷き、その上に寝ていてごらん。すると蒲の花粉が身体について傷はふさがり、そっと寝ていれば元の皮膚のようにきっと治るだろう」と教え、兎がその教えの通りにしたところ、兎の身体は元通りになりました。これが因幡の白兎のお話です。

この兎は大国主神に、「大勢の兄弟の神々は、きっと八上比売を妻に得られすまい。袋を負って卑しい役目をしておられますが、あなた様が必ず得られるでしょう」と申し上げました。

八上比売は、求婚に来た兄弟の神々に、「私はあなた方のいうことは聞きません。大国主神と結婚しましょう」と言ったので、これを聞いた兄弟の神々は怒って、大国主神を殺そう」とみんなで相談して、伯耆の国の手間山の麓に大国主神を連れて行き、「この山に赤い猪がいる。それをわれわれが追い落とすから、お前は下でそれを待ち構えて捕まえろ。もしも捕まえ損なったら、お前を殺してしまうぞ」と言い、山の上から、猪に似た大きな石を火で真っ赤に焼いて転がり落としました。

大国主神がそれを捕まえようと抱き留めると、真っ赤に焼けた石にたちまち身体を焼かれて死んでしまいました。この話を聞いて、母親の刺国若比売(さしくにわかひめ)は泣き悲しみ、なんとか息子を助けたいと、高天原に上がって行って、神産巣日神(かみむすびのかみ)にお願いしました。

神産巣日神(かみむすびのかみ)は、すぐにきさ貝比売とうむぎ比売を呼んで、大国主神のもとに派遣し、治療に当たったところ、大国主神は復活しました。

きさ貝比売とは、赤貝を人態化したお名前です。蛤貝(うむぎ)比売とは、蛤を人態化したお名前のことです。この二人の比売神は神魂神(かむむすびのかみ)様のお子様で、近くに神魂(かもす)神社があります。

その時の様子は、きさ貝比売が赤貝の貝殻を削り落として粉を集め、蛤貝比売がその粉の集まるのを待って受け取り、蛤の汁を溶いて母親の乳のようにして火傷の部分に塗ったところ、大国主神は、再び立派な男性として出歩くようになりました。

一般に、熊野大社というとご祭神は、スサノオノミコト様だと思われていますが、熊野大社は、「熊野権現」とも呼ばれています。

「権現」の「権」とは、「仮の」という意味でもあります。ですから「権現」とは、「仮に現われる」ということを意味しています。

つまりスサノオノミコト様の他に、まだ表に出ておられない尊い神様がいらっしゃるということです。この事については、「熊野権現の謎」として、別の機会にお話ししたいと思いますが、ここでは大国主の神様がお命を救われた神産巣日神様が、熊野大社にはいらっしゃるということにとどめておきたいと思います。

こうしたことから、大国主神様は、ご自分の大御祭りを行うときには、まず神産巣日神様のいらっしゃる熊野大社から忌火をいただくようにされたのです。火とは、霊魂の『霊(ひ)』ということにも通じます。そしてご恩になったことを、いつまでも忘れることなく、今の世にも伝えておられるのです。

出雲の熊野大社では、この儀式を亀太夫神事として、出雲の神主さんにさんざん威張り散らして渡す儀式であるように伝わっていますが、本来の意味とはかなり異なることではないかと思います。

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2012年4月30日 (月)

第55話 神無月と神在月

日本では、一月から十二月までのすべてに、睦月、如月、弥生、卯月、皐月、水無月、文月、葉月、長月、神無月、霜月、師走と言うように、それぞれの月に名前が付いています。

そして、十月は、一般に『神無月(かんなづき)』と言われます。それは、全国の神様が出雲大社に集まられ、一年のことを話し合うので、出雲以外の所には、神様がいなくなる為に『神無月』と呼ばれ、出雲だけは反対に全国の神々様がお集まりになられるために、『神在月(かみありづき)』と言われるのだと伝わっています。

はたしてそうでしょうか。「全国の神様は、すべて出雲の地に集まる」といわれますが、伊勢神宮にいらっしゃる天照大御神様が、出雲の地にお出かけになられ、十月は天照大神様を初め、伊勢の神々様はどなたもいらっしゃらないという話は聞いたことがありません。

つまりこの話には、省略されている言葉があります。

この場合は、「すべての神」ではなく、「国津神はすべて」出雲へ参集するという意味になります。神様の中で「国津神様は」省略されているのです。一般的に言えば、出雲系の神はすべてということです。

神様には、「天津神様」と「国津神様」がいらっしゃいます。天津神様の代表が、天照大御神様、国津神様の代表が、大国主神様です。出雲大社は、その大国主神様をお祀りしているお社です。

したがって、天照大御神様、あるいは天孫降臨系の天津神は、出雲へは行かないのです。にもかかわらず、一般には、すべての神はと伝わったのです。

日本人は、昔から言葉の省略に長けていました。大事な言葉が省略されていても、そこを感性で受け取り、意味を感じ取ることが出来る。それだけ、『以心伝心』で通じ合っていたのだと思います。

「言葉は同じようでも、それが本当は何を指しているのか」に気が付くと、相手の方との意思疎通も滑らかになりますし、更に進めばいろいろな謎とされるところも解き明かされていくことが出来ます。

古事記の最初に、造化三神として、天之御中主神様を中心に、高御産巣日(たかみむすびの)神様と神産巣日(かみむすびの)神様が出られますが、高御産巣日神様は天津神様のご担当であり、神産巣日神様が国津神様のご担当をしておられます。このことを、次回の大国主神様のところで明らかにして参ります。

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2012年4月23日 (月)

第54話 真実に気がつく第一歩 父とは

今日は、「なぜ、父と呼ぶのだろう」と思った単純な疑問からの気づきをお話ししたいと思います。

赤ちゃんが生まれるまでに母親は、十月十日お腹の中で育てて、お産という大きな事業を経て、子供を産みます。肉体的にも、赤ちゃんと臍の緒で繋がっているし、その後も自分の身体からおっぱいをあげて育てます。

だからお母さんが、「ちち=乳」なら分かりますが、じっさいに「ちち」と呼ばれるのはお父さんの方です。

「何でおっぱいの出るお母さんが母で、おっぱいの出ないお父さんを父(ちち=乳)と言うのだろう。」ほんとうに単純ですが、こう言われると気になりませんか。

おっぱいの出ないお父さんのことをちちと言うのですから、私は単純に疑問に思ったのです。でもあるときにはっと、気がつきました。

『それは血統の血(ち)と霊的な霊(ち)というもの、これを先祖から受けて子孫に伝える人。だから血と霊を受け継ぐので、父というのだと。』つまり肉体的なものと、精神的なものの両方を先祖から受け継いで、それを子孫に伝える人という意味だと言うことですね。

身近なこと、それが当たり前に受け取られていることでも、「あれ?これはなぜだろう?」と感じたら問いかけてみること、これが真実に気付かせてくれる第一歩だと思います。

今は、何でも「複雑に」「ややこしく」「わからないように、わからないように」されている勉強のせいで、かえって「なぜ?」と感じる心が働きにくくなってしまったのかもしれません。

そもそも「学問」とは、「学び、そして(疑問に思うことを)問う」ことで、気づき、身についていくもの。ただ一方的に、押しつけられ、詰め込まれるのは、本当は「学問」とは言わず、やはり「勉めることを、強いられる=勉強」なのですね。

子供さんもある時期、うるさいくらいに「なんで?どーして?」と聞いてくる時期がありますね。次々に問いかけてくるのを「うるさい!」と思わずに、向き合ってあげていると「あれ、そういえば、なぜだろう?」と子供の時のような柔軟な吸収力で自分も考えたり、気付いたりしていかれるのではないかと思います。

私の場合は、この単純な質問を、神様に直接お尋ね致しました。そしてお答え頂いたのです。当時は、自分がはっと気がついたと思っていましたが、実は神様がそのお答えを下さっていたことに気がついたのです。

でも「おっぱいの出ないお父さんを、なぜ父と言うのだろう」という疑問がなければ、教えて下さいません。そういうことになろうかと思います。それが大事なのではないかと思います。何でも疑問に思うことです。

「本当かなぁ、何でだろう」と。そうすると教えてくださるのです。でも私の疑問は単純でしょう。おっぱいの出ないお父さんの事を父と言う。何故だろう。それで良いのですよ、それで段々・段々分かって来るのですから。

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2012年4月16日 (月)

第53話 神様の世界の謎 天照大御神様

日常生活において、疑問を疑問として放置してしまうと、真実に気がつきにくいと思います。むしろ私は単純ですから、いろいろな疑問を持ちます。

神様の世界においては、たくさんの謎とされることがありますが、その中でも天照大御神様は、「日本の中心の神様で、伊勢神宮に鎮座しておられる」と言われたり、「太陽神」と呼ばれたりすることに、大変疑問に思っていました。

「日本の中心の神様」ということでは、昔から「一生に一度は、伊勢参り」と言われ、徒歩で旅する時代には、何ヶ月もかけて全国から大勢の人がお参りしていました。

そして各ご家庭の神棚でも、天照大御神様のお札が真ん中に祀られています。毎年暮れになると、近くの神社から天照大御神様のお札とご一緒に、その神社のお札が配られてきます。地元の神様がどなたであろうとも、日本の中心の神様として天照大御神様のお札を真ん中にお祀りしているのです。

そして伊勢神宮は、二十年に一度式年遷宮(神様のお社を新しく作り替えて、お移り頂く儀式)が行なわれています。

他方天照大御神様は、「太陽神だ」とも言われます。

天の岩戸の物語などでは、「太陽の神様である天照大御神様が、天の岩戸にお隠れになられたために、地上は突然真っ暗になってしまいました。」そして「暗闇に紛れて悪いものが大勢騒ぎ出しました」と言われています。

そして「天照大御神様が、岩戸からお出ましになられた瞬間に、周囲は以前のように明るくなりました。」とあります。

つまり「日本の中心の神様で、伊勢神宮に鎮座している神様」と「世界中を照らす太陽の神様」の二つの面をお持ちだということです。

私は、実は長いこと、なぜだろう、可笑しいなと思っていました。「太陽神なら日本の神様というより、世界中の神様の筈だ。太陽は世界中を照らす筈なのに、何故、日本の神様と言われるのだろうか。太陽神なら、世界中どこも照らしているではないか」と。

それなのに天照大御神様は太陽だと言ってみたり、伊勢神宮に鎮座すると言ってみたり、良く分からなかったのです。

あるとき、私が大神様に逆の意味で質問をさせていただいたのです。「大変恐縮でございますが、天地創造に付いてお伺いをさせていただけますでしょうか」と申し上げたら、『そなたの尋ねる天地創造とは、大宇宙の天地創造のことか、それとも地球の天地創造のことか』と反対に聞かれたのです。つまり『この地球が誕生した時のことか、大宇宙が出来た時のことか』と、逆に聞かれたのです。

それで、「え!」と思ったのですが、その瞬間に全てのこと分かったのです。「あー、神様の世界には大の関係と小の関係がおありなのだ」と。

そういえば古事記の最初に、「天御中主神様は、独り神にして、お姿をお見せになられなかった」と書いてあるのです。天御中主神様は、地球担当の神様であると同時に、銀河系の神様だと言われています。

天照大御神様は日本担当の神様であると同時に、太陽系の中心の神様だから、太陽は毎日拝むことが出来るけれども、銀河系の神様である天御中主神様は見る事が出来ないので、お姿をお隠しになっておられる。要するに「

お姿をお見せになられなかった」という表現になったのではないでしょうか。

従って天照大御神様は大の関係では太陽神であると同時に、小の関係では日本担当の神様でいらっしゃるのだと言うことに気がつきました。大事なのは、大神様から逆に「そなたの尋ねる天地創造とは、大宇宙の天地創造のことか、地球の天地創造のことか」と言われ、神様は地球の事を「ちだま」と仰いますが、それだけのことで、全部理解出来るのですよ。閃いてくるわけです。 

神の世界は、大と小という二重の関係になっている。その辺が自分が求めに求めて、常にピーンと張り詰めていれば、そういった事まで解けるのだということです。それが大事なのではないかなぁと思うのです。逆に質問されて、それで謎が解けたのです。

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2012年4月 9日 (月)

第52話 日本のルーツ 

第51話で、神様が人を作られるときに、霊成型(ひながた)と言うものを作り、そこに霊魂を分け入れて下さったと言うお話しをしました。

だから神様と人とは、親子なのだと・・

神様がはじめに霊魂を入れてくださった所を「霊の元つ国(ひのもとつくに)」と言います。要するに霊魂の元である神様の分け御霊をはじめに入れた国ということです。

時が経ち、「霊(ひ)」が「日」になり、

「元」が「本」になったということなのです。

「霊の元(ひのもと)=日の本=日本」です。

これが日本国という意味合いなのです。

この『霊の元つ国』は、どこにあったのでしょうか。その大本になるところは太平洋に沈んだと言われているムー大陸です。かつて大変に栄えたムー大陸が、一夜にして沈んでしまったといわれますが、なぜ一夜にしてそんな大きな大陸が沈んでしまったのでしょうか。謎とされていますね。

これは、昔々のあるときに、宇宙人が神様が作った『霊成型』を盗みに来たのです。それを取られては、大変な事になってしまうために、それで一夜にして海中に没してしまったということです。

かつてムー大陸が沈んだときに、人々が船で流れ着いたのがペルーだとかインカ帝国や東南アジアだったのです。

日本の場合は、島の一部が流れ着いたのです。環太平洋のそうしたところには、不思議なほど共通するものがあると言われます。一つには、大変に霊感というか、感性が優れていると言うことです。

日本からは大変に遠いのに、ぺルーの方の石笛というかオカリナというものを聞くと、昔から知っていたかのような感覚になり、非常に郷愁を誘っていると思います。また東南アジアの山奥の方でも、非常に似た祭りがあるのですね、それは元が一緒で、ムー大陸のところから出ているからです。

日本の地図では和歌山県のところに紀の川というのがあります。紀の川をずぅーと行くと、反対側に四国の吉野川があります。ここから吉野川を遡っていくと、香川県と徳島県の県境を通って、愛媛県の方へ入って、松山の先に陶器で有名な砥部(とべ)というところがあり、そこに断層があります。そのまま延長線で行くと佐田岬のところから別府湾に通じています。

だから別府湾のところから下、それから徳島の方から言うと、吉野川から太平洋側、紀の川から太平洋側、それがムー大陸から流れ着いたと言われているのです。だから日本人のかなりの部分がムー大陸からの元の霊の元つ国の人々であるということです。

紀の川の下のところは、紀州と言います。それから志摩、伊勢、これを称して紀志伊(きしい)の国と言います。そこがムー大陸から流れ着いたところではないかと思われます。

九州の方でも別府から下、阿蘇も含んで天孫降臨の高千穂もムーの地になります。だから昔から日本は、神の国と言われたのです。天孫降臨の高千穂は元のムーのところです。

だから『霊の元つ国=日の本=日本』というのです。

今日は、日の本、日本の意味と、日本人のルーツのお話しになりました。

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2012年4月 2日 (月)

第51話 人として生まれた天命 万物の霊長としての人

今年は、「天命」を主テーマに、講演会のお話しをしていますが、「私の天命は何でしょうか?」と言う前に、「人として生まれた天命」について考えてみたいと思います。この世の中には、人間の他に、たくさんの動物や植物などの生き物が誕生しています。

何でも遺伝子などの部分では、人も動物も、植物もあるところまではかなりの共通点があるそうですが、自分は今人として生まれてきているのを当たり前と思わないで、人として生まれてきた意味を改めて考えて見て頂きたいと思います。

「人は、万物の霊長」と言われますね。ではなぜ万物の霊長と呼ばれるのでしょうか。

その前に、歴史教科書の記述を巡っていろいろな議論が出されています。近年の歴史の捉え方では、いろいろな意見に分かれるようですが、「人類の始り」に関しては、「人類は、サルから進化した」と言っていないでしょうか。

私は「先祖供養をしなさい、敬神崇祖ですよ」と言っています。「神様を敬い、ご先祖を崇めなさい」と皆さんに言っていますが、先祖がサルでは崇められますか。動物園へ行って、「ご先祖様」と言って手を合わせられますか。

人類はサルから進化した、誤解も良いところです。何故違うかということを良く抑えて欲しいのです。人として誕生した、その本質のところから見て下さい。

要するに神様は、何の為に人を作られたのか。神様は自分で何事もしようと思えば出来るのだけれども、しかしそれは霊的なものです。神様のされるのは霊的なものです。ですからそれを現物のものとして作るために人をお作りになったのです。だから建物を作るにしても、霊的に作ることは出来るけれども、現実に建物として作るには、人の手を借りたい。そこで人を作る事を思い付かれた。

その時に何をされたかというと、『霊成型』というものを作られたのです。これは、昔はいろんな物を作る時に『鋳型』というものを作ったのです。例えば粘土の様なもので、その中が壺になるようなものを作っておいて、その中に熱いものを流して行く。鉄製のものであれば鉄をその中に溶かして入れるというふうな形で、容器を作る時などはこういう鋳型というものを作ったのです。ここで神様は霊成型というものを作って、それで人を作ったのです。そして人の形が出来た時の最初の出来そこないがサルなのです。ここには神様の霊魂を籠めることは出来ないと言って、神様が去って行っていかれたので、去る=サルというのです。

そしてもう一度作り直して今度は人が出来たから、その人のところに初めて神様はご自分の霊魂を分け入れたのです。それで「分け御霊」或いは「ご分霊」と呼んでいるのです。

皆さんにも、分け御霊としてのご分霊があります。だから自分を大事にしないとご分霊に失礼になります。ご分霊とご本体である高天原の神様との霊魂どうしを合わせると、物凄い力が出ます。それが皆さんが神社に参拝をする意味なのです。

 だからこそ「人は、万物の霊長」というのです。

従って、神様は自分の現実のものを作るものとして人を作って下さったのだから、その人が生活出来るようにという事で、動物・植物・鉱物、全て人が生きて行くために必要なものを作って下さったのです。植物のものには食べられるものもあれば、見て美しいなぁと鑑賞するようなものも含んで、全て人の為に作って下さったのです。その人の為に作ったものは、これは次々と進化をするのです。だけど人は進化しない。最初から完全なものとして作ってくださったのだから。

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2012年3月26日 (月)

第50話 あの世は、天国と地獄だけではない 

「天国と地獄」という映画もあり、「あの世には、天国と地獄しかない」と思っている人が多いと思いますが、あの世にはこの世でいう身分階級などとは比較にならないほどの、たくさんの階層があります。

それはその人のこの世での過ごし方、考え方から 霊魂の状態に応じたところに行くことになります。亡くなった時に、お寺さんにたくさんのお金を積んで戒名に、いわゆる「院号」をつけてもらったりしますが、それであの世の良いところに行くことは出来ません。

 この世では、お金で買えないものはほとんど無いと思われていますが、あの世の行き先は、絶対に金銭では買うことが出来ないものです。だからこそこの世での過ごし方、考え方が大切なのですが、まずはあの世の階層とはどうなっているかを簡単にお話ししたいと思います。

行く先は人によって異なりますが、最高位は『神界』です。「えっ?死んだら、神様の世界に入れるの?」と驚かれるかもしれませんが、本来「人類は、すべて神の子」ですから、全員が神界に返られるのが理想なのです。

しかし、残念ながら神様の世界にただちに行くことが出来るのは、一世紀に一人か、二人しかいないと言われています。

実は『天命とは、神様の世界に返った時に自分がすべき役目のこと』なのですが、それがまだまだ修行中の状態で、神様の世界でその役目を果たせるようにならないと、神様の世界に入る事は出来ません。

また神様の世界は、一点の曇りも、汚れもない黄金の世界であり、現在のように空気も、水も食べ物も人の心もかなり汚れている世界で生きている人にとっては、かなり難しいことになっています。

そこに返ることができない人が、次に行くべき所が『仏界』です。仏様の世界です。

この神界・仏界に返れる人は、高いところですから、あの世とこの世の出入りも自由ですし、ご子孫の方などを強い力で守って差し上げる事が出来ます。

よく亡くなった方に「成仏して下さい」という言葉をかけますが、「成仏」とは、この仏界に返れることです。なかなか「成仏」出来る人は、少ないのです。

仏界にも返れない人は、次に『霊界』に返ることになります。ここに入るには、天命を知って天命に生きることが前提になります。

しかし今生きている人で、自分の天命を知っている人はどのくらいいらっしゃるでしょうか。残念ながら・・ほとんどおられないはずです。天命を知り、天命に生きる事は、この世だけでなく、実は人の世を去った後にも重大な関わりがあったのです。

少なくとも仕事がイヤで、金のためだけに仕方なく働いているという人は、絶対にその人の天命の仕事についてはいないはずですから、霊界にも入る事は出来ません。

ここにも入れない人は、次が『幽界』になります。幽界に返るには、感謝の気持ちがあることが条件になります。

人はすべて神の子ですから、一般的に「感謝の気持ちはおありですか」と問えば、皆「あります」と答えます。大切な事は有無ではなく、その感謝の気持ちが日常生活に活かされているかどうかなのです。

この下は俗に言う「低いところ」です。そこは、『餓鬼界』・『修羅界』・『畜生界』の三つに分かれています。餓鬼界は、際限なく「くれくれ」と言う欲望の世界です。

修羅界は争いの世界です。畜生界は感謝の気持ちを持たない者の世界で、今や満杯状態です。日常生活においても、いろいろと「してくれ」とは言ってくるが、お礼も言わない人が増えていると思います。ですから、お礼を言う人がいたら、まだましな方だと思って下さい。

この三つの界は、底なし沼のようになっていますので、最初は幽界に手の届くようなところにいても、よほど気をつけないと、いつの間にか底の方に沈んでしまうおそれがあります。

その下がいわゆる地獄界です。血の池地獄・針の山地獄などがあり、極寒地獄が一番厳しいところと言われています。

地獄に行ってしまいますと、年に一度『地獄の竈の蓋が開く』と言われるように、お盆の時だけ供養が受けられることになります。餓鬼・修羅・畜生の世界では、春・秋の彼岸と、ご命日にも供養を受けられます。

神界は天上にあり、仏界は中空にありますから、地上での出来事には影響を受けません。霊界・幽界は地上にあります。しかし、大地にしっかりと足を踏みしめることが出来ますので、少しずつでも高いところに登って行くことが出来ます。

生きているときの考え方や生き様が、あの世の行く先を決めるのですから、辛いことがあっても、やけくそになって人生を投げたりせず、『人生は修行の道場』と立ち向かいたいものですね。

        今年の小田原定例講演会は、『天命シリーズ』です。

人はなぜ生まれ、どう生きるべきか

日本人として生まれた天命

先祖に繋がり、天命を知る方法

4月は、職業別の天命 です。

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