神道は、宗教ではない
現在では、神道も宗教の一つだと思われている。また「各神社も宗教法人になっているのだから、宗教だ」と言う人もいる。形の上ではもっともな言い分である。しかし、オウム真理教のときにも、「この団体は、宗教団体ではない」と言った。なぜか。
宗教は、人に対して、人として生きて行くためのみちを説くものである。「人を殺してもいい」などというのは、はじめから宗教ではないからだ。ところが、「宗教法人だから宗教だ」というのである。本末が転倒してはいないだろうか。
実態が宗教であるものに宗教法人の認可を与えるべきだというのが本来の姿ではあるが、その実態を掌握することは困難なので、形式的な審査によって認可しているのである。戦後の日本は、こうした形式的な審査によって運営されてきたと言っても過言ではあるまい。
したがって、われわれ国民の側が、その実態は何かを見分ける力を養わないと、こうした形式主義に流されてしまうのである。
それでは、『神道は宗教ではない』という論に入ることとする。まず、宗教とは、読んで字の如く「教えるのを宗とする」ものである。だから、宗教には必ず教える人と教える材料があるのだ。
キリスト教で言えば、教える人イエス・キリスト、教える材料旧約聖書・新約聖書、仏教では、教える人お釈迦様、教える材料仏典・経典、イスラム教で言えば、教える人マホメットあるいはモハムド、教える材料コーランである。
これらの教える人は、われわれのような常人ではなく、いわゆる聖人のようなお方であるが、それにしてもわれわれと同じくこの世に生を受けた人なのである。ここが根本的に異なることに留意すべきである。
神道には、教える人もいなければ、教える材料もないのである。誰が教えたという人はいない。また教える材料もない。祝詞はあるが、祝詞は私たちが祈願をし、感謝を述べるものであって、教える材料などではない。
神道で大切なのは、「その対象はすべて大自然そのものである」ということである。森羅万象のすべてに神が宿るという考え方である。したがって、先人たちは、山には山の神、海には海の神、川には川の神、野には野の神、田には田の神と言うように、八百万(やおよろずの)神様がいらっしゃると捉えたのである。
日本人は、こうした大自然の声を直接聞き、感応し、日々実践してきた民族なのである。朝日に祈願し、夕日に感謝し、日々の行動には「お天道様が見ていらっしゃる」として自制し、それを各家々で、実践してきたのである。教えの中で学ぶというよりも、実践の中で体験し、感じ取って見につけてきたのである。今はこうしたことを忘れ、神から遠ざかってしまったのである。早く本来の日本人の姿に立ち返って欲しいものである。