初めて神様のお姿に接する (3)
参拝に来られた方々も、やはり「パンパン」と拍手を打って、すぐに祈願等を済ませ、そそくさと帰って行かれますので、神殿の前でじっと動かずにいる私の方が、周囲の人の目には奇異に映ったのではないでしょうか。今時、ご神殿の前で、十分間も拝んでいる人などいないでしょうから。
時々は、目立たぬようにではありますが、神主さんや巫女さん達が、こちらの様子を窺っていることもありました。
ですから、余り長い時間していて、最初は何となく人に見られているような気がしたり、クスクス笑われたりということで、やはり何となく恥ずかしくて、集中出来なかったり、『念と言霊』と言いましても、なかなか言葉にお出し出来なかったこともありました。
それでも、昼休みになると、必ずと言っていいほど、毎日のように参拝を続けたのですが、一月経っても、何の変化もありませんでした。ですから、
「何時になったら、神様のお姿を見ることが出来るのだろうか」とか、
「自分は、一体毎日何をしに来ているんだろうか」
などと、不安な気持ちがよぎることもありました。
しかしながら、お姿としては目にすることは出来ないながらも、事務所に戻って来ると、何となくサッパリとした気持ちになっていたり、午前中の苛立ちがなくなって、新しい気持ちで仕事に取り組むことが出来たりしたのです。
小さいながらも、独立して事業を行うことは、人知れぬ気苦労というものはあるものです。
講師の先生の交渉一つにしましても、印刷をどこに出すか、職員の人にやってもらうか、さらにはアルバイトを何人雇うかなど、あげて行けば切りがないほど用はあるのです。ですから、参拝によって、気持ちが落ち着くだけでも、私にとっては素晴らしいことでした。
しかし、いつの間にか、一般の言葉で言うと「のめり込む」とでも言うのでしょうか、「神様にお会いしたい」という気持ちが強まると共に、「これでは、何時まで経っても、何となく空振りをしているようで、神様にはお会い出来ないのではないか」という思いがしてきたのです。
それに、周囲の人達にも、「あの人、何かおかしなことをやっているのではないか」とか、「あの人は、不審な人だよ」などと思わせて、おかしな念を出されては困ります。
御社は、神聖な場所でなければなりませんし、そういう目で見られること自体、私にとっては意図が違いますから、そういう感じがした場合には、その前に「やめた方がいいだろう」と思って、やめたこともあります。
御社の中に、そういう気とか念が出るようではいけませんが、
「なんだろうね、あの人」
ということで、一寸くらい指差されたり、クスクス笑いをされる程度であれば、こちらも段々と慣れてきたこともあって、あまり気にならなくなって参りました。
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