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参拝に来られた方々も、やはり「パンパン」と拍手を打って、すぐに祈願等を済ませ、そそくさと帰って行かれますので、神殿の前でじっと動かずにいる私の方が、周囲の人の目には奇異に映ったのではないでしょうか。今時、ご神殿の前で、十分間も拝んでいる人などいないでしょうから。
時々は、目立たぬようにではありますが、神主さんや巫女さん達が、こちらの様子を窺っていることもありました。
ですから、余り長い時間していて、最初は何となく人に見られているような気がしたり、クスクス笑われたりということで、やはり何となく恥ずかしくて、集中出来なかったり、『念と言霊』と言いましても、なかなか言葉にお出し出来なかったこともありました。
それでも、昼休みになると、必ずと言っていいほど、毎日のように参拝を続けたのですが、一月経っても、何の変化もありませんでした。ですから、
「何時になったら、神様のお姿を見ることが出来るのだろうか」とか、
「自分は、一体毎日何をしに来ているんだろうか」
などと、不安な気持ちがよぎることもありました。
しかしながら、お姿としては目にすることは出来ないながらも、事務所に戻って来ると、何となくサッパリとした気持ちになっていたり、午前中の苛立ちがなくなって、新しい気持ちで仕事に取り組むことが出来たりしたのです。
小さいながらも、独立して事業を行うことは、人知れぬ気苦労というものはあるものです。
講師の先生の交渉一つにしましても、印刷をどこに出すか、職員の人にやってもらうか、さらにはアルバイトを何人雇うかなど、あげて行けば切りがないほど用はあるのです。ですから、参拝によって、気持ちが落ち着くだけでも、私にとっては素晴らしいことでした。
しかし、いつの間にか、一般の言葉で言うと「のめり込む」とでも言うのでしょうか、「神様にお会いしたい」という気持ちが強まると共に、「これでは、何時まで経っても、何となく空振りをしているようで、神様にはお会い出来ないのではないか」という思いがしてきたのです。
それに、周囲の人達にも、「あの人、何かおかしなことをやっているのではないか」とか、「あの人は、不審な人だよ」などと思わせて、おかしな念を出されては困ります。
御社は、神聖な場所でなければなりませんし、そういう目で見られること自体、私にとっては意図が違いますから、そういう感じがした場合には、その前に「やめた方がいいだろう」と思って、やめたこともあります。
御社の中に、そういう気とか念が出るようではいけませんが、
「なんだろうね、あの人」
ということで、一寸くらい指差されたり、クスクス笑いをされる程度であれば、こちらも段々と慣れてきたこともあって、あまり気にならなくなって参りました。
どうしたら神様が出てきてくださるか、手探り状態でしたが、ご神前において、十分ないし十五分間、正面のあの辺りに神様がいらっしゃるであろうと思われる処に、自分の気持を合せて、神様がお出ましになられるのを待つようにしたのです。
こうして、念を通すと申しますか、気持を合せてお待ちすれば、神様は出て来て下さると考えたのです。神社に大きなお鏡がある場合には、そのお鏡に合わすようにしました。お鏡を通して神様の御霊に合せるようにしたのです。
先程、「神様も御用をなさっておられる」と申し上げましたが、たとえば神様が書き物をなさっておられる処へお参りに行ったとします。神様はもちろん誰が来たかということはすぐにわかられますが、何しに来たのかは皆さん次第です。
そこで、神様は「もう一行書けば終るから」と、その一行を書き終えて出てみると、もう後ろ姿というのでは、かえって神様に失礼になりますし、何の用で神前に来たのかがはっきりしない場合には、神様はそのまま御用を続けられることになります。ですから、ご神前において、十分ないし十五分位は、心を鎮めてお待ち申し上げることが大切なのです。
そうは申しましても、この十分ないし十五分という時間は、思いのほか長いものです。お茶を飲んだり、おしゃべりをしたりの十分などはあっという間にたってしまいますが、自分の心を白紙にして神様に向かう十分はものすごく長く感じるものでした。
自分の心に雑念が生じる以前に周囲から奇異な目で見られたり、からかわれたり、心落ち着けていることがとても難しいのです。
私自身、その当時事務所が飯田橋にあったものですから、一週間のうち五日くらいは東京大神宮に参拝させて頂いておりましたが、早朝の誰もいない時間ならばともかく、私がお参りをさせて頂きましたのは、十二時から十三時までの昼休みの時間でしたから、大勢の方が境内におられましたし、参拝の方はもちろんのこと、昼休みを利用して、近くのOLの人達も大勢談笑の一時をここで過ごしていました。それに、お天気の良い日などは、ここで昼食をしている方達もいたのです。
ですから、ご神殿の前で、「心を鎮めて」と思っても、なかなか思うようには参りません。いわゆる「気が散ってしまう」のです。特に最初のうちは、周囲の目が気になるものです。なかには、「何をやっているんだろう」と、わざわざ顔を覗き込んで来る人さえありました。
「神と一体化せよ」というお伝えを頂いてからは、もうあれこれと迷い道をすることもなく、以後はただひたすら『大神様』を求めて専念し、二度と迷ったことはありません。
しかし、大神様ご自身は、今だにどの神様なのかわかりませんでした。ただ、「大神様、大神様」と、ひたすら言い続け、求め続けていたのです。
日本の国においては、何と申しましても天照大御神様が中心になっておられますので、私としましては、「大神様は、天照大御神様のご先祖の神様に相違ない」と思い、日々東京大神宮にお参りをさせて頂くと同時に、その天照大御神様を通じて、さらにそのご先祖に当たられる大神様ということで、念を通させて頂いたのです。
皆さんは、神社参拝をされる時に、「パンパン」と拍手を打って、すぐにお参りをして帰って来られるのではないでしょうか。
その神社の大祭とか例祭などの日には、神様も祭礼の日だからと、早朝から一日中居て下さいますが、普段の日には神様も御用をなさっておられますので、神社には居られないことの方が多いのです。
神社と申しますのは、神様の御社のことですので、お宮と言うのと同じく、神様の御霊(みたま)の依代(よりしろ)という意味なのです。ですから、神様にお出まし頂く場所とお考え頂ければよろしいかと思います。
だからこそ、皆さんが正式参拝をなさられますと、『降神の儀』と言って、太鼓を叩いて神様に降りてきて頂くのです。その後、『献饌の儀』としてご奉納品をお供えし、祝詞奏上や神楽舞を献納して、次に『撤饌の儀』としてお供え物をお下げし、再び太鼓を叩いて『昇神の儀』を行ない、神様にお帰り頂くのです。
ですから、普段は神社といえども、神様は常にいらっしゃるとは限らないのです。そこで、神社以外の処では、神主さんが警蹕(けいひつ)と言って、「ウォー、ウォー」とお声をお掛けして、神様をお呼びするのです。
しかし、まさか神社で、素人の者が、勝手に「ウォー、ウォー」とするわけには参
りません。神社関係者の方からすれば、「それくらいなら、正式参拝をすればいいではないか」、と思われるでしょう。
このように、人々のために、神様の道を説き、人としてあるべき方向へと導かなければならないところの人達が、寄ってたかって、餓鬼のように「出せ、出せ」と、か弱き女性に迫るのは、本当の神様のおられるところとは思われませんでした。 私が求めているのは、真実の神様であって、神様の教えに名を借りて、人と人との勢力争いとか、その勢力の拡張に明け暮れ、また金銭的なゴタゴタを繰り返しているような教団ではありません。 そうした現状が見え隠れするにつけ、私はある種の失望を覚え、そこからもしばらく遠ざかっておりましたところ、知人から支部の責任者の方のお話があるという連絡を受けて、久し振りに出かけて行ったのです。 そのお方は、大変美しい中年の女性の方で、にこやかな笑顔も素敵なお方でした。格別皮肉を言われたわけではなく、むしろお気持の上では、ある種の歓迎の意味ではなかったかと思うのですが、にこにこしながら、 「今日は、教えは大変いいんだけれども、教団にはどうも、という方がお見えになっていますね」と言われたのです。 私に対して言われたことは明白です。それもそのはず、何しろ一番前の真ん中、す なわちそのお方の真ん前に座っていたのですから。それで、目と目が会った時に言われたのです。 私も、軽く笑顔で応じたのですが、その瞬間に、その方の後ろ、つまり正面のご神殿の明りが消え、金箔のように光っていた黄金の色も、一瞬にして粗壁のような色と模様に変り、そこに一文字一文字、墨痕も鮮やかに文字が書かれていったのです。 『 神に一体化せよ とは申しておるが 教団に一体化せよ とは申しておらぬ 』 というものでした。 毛筆で、黒々と、神殿一杯に大きく書かれた文字の素晴らしさと、その内容に圧倒されてしまい、それによって、私はすべてを悟り、そのお方の言葉とは関係なく、一礼してすぐにその場を退出したのです。他に席を立つ人がいなかったところをみると、この文字は、私にしか見えなかったのかもしれません。 言われた方は、ご自分の言葉によって、あるいは私が気を悪くして退出したと思われたかもしれませんが、私にとっては、第二の目覚め?とも言うべき、大きな出来事でした。 いろいろと教えて頂きましたことには、今でも感謝しておりますが、私が信じるのは、大神様だけです。その信念は、ずーっと変わっておりません。 ちなみに、この時お知らせをして下さったのは、弘法大師様であったことが、ずーっと後になってわかりました。道理で達筆でいらっしゃったのです。
何か今一つ心に満たされぬものを感じ、「これでよいのか」と思い悩み、また「本当に神様はおられるのだろうか」とか、「自分の人生は、どうなっているのだろうか」
などと不安にかられましたが、それはやはり「大宇宙の真理なり、大神様なりの根源に触れていないからではないか」などと、かえって不安はつのり、悩みも深刻になって参りました。
「今度こそ、今度こそ」と思って、いろいろな教団や宗教団体を渡り歩いておられる方も、大変多いように思います。
それだけに、私などが、少しの間神様を求めてみても、なかなか辿り着けないのではないか、などとも思ったものです。それでも、私の魂は真実の神を求め、雄叫びをあげていたのです。
何度か行っているうちに、いろいろなことを見聞き致しました。いずれも失望以外の何物でもないようなお話です。
長く来ておられる方で、いわゆる幹部と称されるような方は、交代で当直があるそうですが、ご神殿に寝泊まりすることさえ憚られると思うのに、人目を盗んで、毎晩のように、それぞれお酒を飲んでいるというのです。
しかし、人目は避けることが出来ても、本当に神様がいらっしゃると思えば、神様の前で、平気で人目を盗んでお酒を飲むなどということが、果たして出来るものでしょうか。直会のように、神様と共に、皆さんで頂くのならばともかく、とても神様を信じ、神様のもとにお仕えする人のとるべき態度とは思えませんでした。
それに、それぞれのブロックと言いますか、いくつかのグループに分けて、その責任者からそれぞれの会員というのでしょうか、皆さんに連絡が行くようになっているようなのですが、その方々の人選も、本当にふさわしい方なのだろうかと思わせるところがありました。
後で伺ったところによれば、大勢の人を連れて来られた方が偉くなるのだそうで、その役目にふさわしい人がなるのではないようなのです。それだけに、その方について行けるかどうかも問題になりますし、それぞれのグループ毎に、言っていることや行っていることが異なることさえありました。
また、ある四十半ばのご婦人が、二十歳のお嬢さんと二人で暮らしていたところ、その土地の一部が、高速道路の予定地になり、補償金をもらって立ち退いた後、アパート暮らしを始めましたが、その補償金の半額をある教団に寄付し、残りのお金をさらに半分に分け、一つはその娘さんの結婚資金や将来の蓄えとし、残りのものでご自分と娘さんとの当座の費用に充てられたのですが、やがてその教団の会員さんから、「なぜ全額寄付しなかったのか」と責め立てられ、その輪が広がったことから、遂にノイローゼになってしまわれたというのです。
責め立てる方も、ご自分がその立場になった時、この方の何分の一でも寄付されたかどうか、他人様のことはとやかく言えますが、ご自分の立場に置き換えた時、本当にそのようなことが言えるのでしょうか。
私は、お名前はわからないながらも、『大神様』とお呼びし続け、日々念を通して求め続けてはおりましたが、時には近くのお寺で早朝禅をしているところへ出かけて行ったりしましたが、残念ながら、私は股関節が固くて足が組めないので、座禅の何たるかを味わう前に、数回行ったきりで止めてしまいました。
また、親しい人の誘いで、いわゆる新興宗教と言われるものにも顔を覗かせたりしました。しかし、そこで見聞きしたことは、本当に神様を求め、あるいは神様のところに来ているのだとの自覚のもとでなさられているとは思えませんでした。
なかには、個人的にも大変親切にして頂き、人の世界としてみたときには、今でも大変有り難かったなと思うお方もいらっしゃいましたが、そこに集まられ、出入りしている方の中には、あまり感心できない人も大勢いらっしゃったように思います。
自分の求めている神様に出会うまでは、あちこちと迷い道をされるのかも知れませんが、いわゆる『神馴れ』とでも言うのでしょうか、神様を友達のような感覚で接している方もいれば、反対にこわごわと本当におそるおそると言いますか、いつも叱られているような態度で接している方もいらっしゃいました。
また、全体の空気としては、同病相憐れむように、互いの悩みを打ち明け合い、慰め合うという感じの方が多かったと思います。それも一つの過ごし方かも知れませんが、それはあくまで人の側の都合のように思いました。
みんな、それぞれ病気とか、倒産とか、夫婦間の問題や家庭内のいざこざとか、そうした悩みがあるからこそ、そうしたところに縋りに来るのでしょうから、その時その時を、互いにいたわり合い慰め合うということも、大切なこととは思います。
ですから、そのすべてが悪いというのではありませんが、その時々の苦しさや悩みに心奪われて、その場その場での慰め合いに終るのでは、単なる人生相談なり、仲間内の会合に過ぎないのではないでしょうか。
お互いに淋しさや悩みを分かち合うという場面が多く見受けられました。そこに出席するあるいはそこのメンバーであるということで安心感を得、満足しているのです。それも人それぞれで一つの生き方かも知れませんが、私の求めるものとは程遠い感じでした。
求めているのは、そうした慰めや、一時的な心の苦しさの避難場所ではないのです。そうした方々に出合うのも、一つのご縁ではありますが、私は真実の神様を求めて進みたいと切望してやみませんでした。
他人から心にもないことを言われ、「よく言うよ」という気持で聞き流すような時には、有り難くもなんともないではありませんか。ましてや、相手は神様です。
「神様は、すべてをお見通しゆえ、言わずとも願い事を叶えて下さい」
などと、言葉をはしょるなどは、あまりにもおこがましいことではありませんか。
いくら神様は私達人類の親だからと申しましても、失してはならない『礼』というものはあるのです。神様の前に立つ時には、常に心を正し、威儀を正して向かはなくてはなりません。
皆さんからの依頼と言うか祈願の中にも、神様を下僕のように勘違いをしておられる方が、大変多いのに驚いています。たとえば、ご自分の願いでありながら、「ご用があったら、ご連絡下さい」と言ってこられます。神様の方には、その方に対して、別段ご用はないのです。あくまでお願いするのは、私達人の側です。この心得違いは頂けません。
また、「いくらいくらのお玉串をするのだから、この願いを叶えよ」という態度の方もおられます。要するに、神様には、あくまでも人の側がお願いする立場なのだということを、認識して欲しいものです。
また、私達の胸の中の思いのままに、神様が願いを叶えて下さるようなことがあれば、却って大変なことになるのではないでしょうか。
人の心というものは、常に一定というわけには参りません。希望に燃えて、人類の為に、一生懸命頑張ろうと思っている時などはよいのですが、失意のどん底にいる時や、人が憎くて殺してやりたいだとか、金欲しさにせっぱ詰まって泥棒をしようなどと、よからぬ思いの時などに、一々神様がそのことを叶えさせていたのでは、世の中は余計に真っ暗になってしまいます。
それに、うつろいやすい人の心に付き合っていたのでは、神様もやり切れないでしょう。「今鳴いた烏がもう笑っている」とか、「女心と秋の空」などということは、しょっちゅうあることです。ともかく、神様の世界では、言霊の作用で、しかも神様の意に叶ったことについてのみ叶えて下さるのです。
やがて、その感応は、少しずつ強まり、はっきりとして参りました。この点も、後
でわかったことですが、神様の世界も、八百万神様ということで、大勢の神様がいらっしゃいます。そうして、それぞれの神様は、職務分担と役割をお持ちなのです。
神様の序列と権限の範囲は、私たちの想像以上に厳しいものがあります。
後々のことになりますが、弘法大師様にいろいろとお伺いをしております時に、「師よ、われに越法の罪を犯させないで下さい」と言われたことがあります。たとえご存知のことでも、ご自分の権限外のことは言ってはならないのです。
人の世界に似ておられますが、もちろんその秩序や位置づけは、私達の世界よりもはるかにずーっと厳格です。人間の世界では、人を押し退けてでも、ということが随分行なわれていますが、当然のことながら、神々様の世界には、そうしたことは全くございません。その役目役目のお仕事をなさられるのです。
ですから、神様にお尋ねした事柄が、その神様のご担当の範囲と異なる時や、範囲を超えている時には、ご存知の内容のことであっても、はっきりとその旨を申され、「担当の神様からお伺いするように」と申されます。
こうして、ご自分の範囲・役割をしっかりと守られますから、当然のことながら、神様の世界では、秩序がしっかりとしています。それだけに、神様の序列もはっきりしておりますので、順序を間違えたお祀りの仕方は、大変困ることになります。
それぞれの内容の事柄を一つ一つ申し上げるのは、私としましては、ただ単に、自分勝手な解釈になってはいけないと思い、裏返しをすれば、私の自信のなさでもあるのですが、「はっきりと言葉に出して行なった方がよい」ように思われたからです。
このことは、後でわかったことですが、大変よい方法だったようです。言葉には霊魂が宿り、これを『言霊』と言っておりますが、その言霊の作用によって神々様は感応され、手配をして下さり、動かれるのです。
それだけに、良きにつけ悪しきにつけ、言葉には気をつけて頂きたいと思います。
その当時としては、そうしたことも何もわからぬまま、自己流に解して行なっていたのですが、このことは大変な意味を持っておりましたので、後日どんどん開けて行く基礎となったように思います。
神様と接する場合に大切なことは、すべてその時その時の『念』つまり思いの強さ深さと、『言霊』によって作用されるということです。ですから、いかに強く念ずるかということと、いかにはっきりと言葉に託して奏上するかということが大切なのです。
神様は、もちろん皆さんの行動については、一挙手一投足のすべてに至るまでご存知ですし、皆さんが何を考えておられるのかもおわかりになられます。
しかし、それだけでは、神々様と致しましては、実行に移すわけにはいかないのです。原則と致しましては、今申し上げました言霊の作用によって動かれますので、はっきりと言葉で申し上げなければならないのです。
大声で言う必要はありませんが、口の中での、モゴモゴ、ムニャムニャでは通じな
いこともあります。特殊な経の唱え方で何を言っているのかわからないような言い方の場合には、余程念を通すと言いますか、気持ちを込めて行うのでなければ、通じないように思いますので、こうした言い方はあまり感心した奏上方法とは言えません。
「朗々と」と申しますか、祝詞奏上も、はっきりと申されるのが最上です。言霊の作用である以上、やはり言葉に自分の霊魂を込めて、はっきりと申し上げるのがよいのです。
私達人の世界でも、同じことが言えるのではないでしょうか。はっきりと物言いをされる時には、その人の決意と言いますか、態度に凛としたものを感じ、それに応じてあげようという気になりますが、もごもご、ふにゃふにゃとした物言いや態度では、自信のなさや決断のなさが気になって、応援する機にはならないのではないでしょうか。
また夫婦といえども、
「わかっているはずだ」
とか、妙な照れ隠しによって、感謝の言葉の一つも言わぬ日々では、何時の間にかなんとなく冷たい風が吹き始め、隙間風が身に沁みるようになってしまいます。
神道は、「先祖代々から子々孫々に至るまで弥栄えに栄える」ということを基本と言いますか、原則とされるのですから、「お返事の方で、はっきりと『ダメだ』と言われない限りは、『よい』ということになるのではないか」などと考えて、
「何となく、お返事を頂いているようには感じられるのですが、折角、大神様にお返事を頂きましても、今の私にはお受け取りが出来ません。しかし、先程より心を澄ませてお伺い致しておりますが、特段にダメだとか、嫌な感じはございませんので、一応お許しを頂いたものとして、このようにさせて頂きます」というように、それぞれの内容の事柄を申し上げてからさせて頂くようにしたのです。
この点は、当然のように述べて参りましたが、後になって美津子先生から、「先生は、弥栄えを原則とされるのですからと、当然のように仰っておられますが、神道が弥栄えというのは、久保田先生が仰られたのでしょうか、それとも何か文献に載っておられたのでしょうか」と、改めて聞かれて、はたと困惑してしまいました。
久保田先生からのお話でもなければ、古史古伝と言われる古い書物も、当時は一切読んでいなかったのです。
大神様から、「古史古伝の中では、場所と神名の点を除いては、秀真伝(ほつまつたえ)が一番よかろう。仮名手本忠臣蔵のように、当時として支障のある場合には、人名と時代背景を変えて伝えるようにしているから、場所と神名を伺いつつ読めば、内容的には信用性が最も高いぞ」とのお伝えを頂いたのは、数年も後になってからの話です。
しかし、稲米の一粒万倍の話とか、神道全体の考え方自体がそうなっているように思われるという、いわば感応として受け取っていたとしか言いようがないように思います。
後になって、『十字の教え』を説くようになってからは、自信を持って「縦の神道は、先祖代々から子々孫々に至るまで、弥栄えに栄え、横の仏教や宗教は、破滅とか滅亡に繋がる」と言えるようになりましたが、この当時はまだ感応に過ぎなかったにもかかわらず、私自身はこのことを確信していたように思います。
ただ『弥栄え』と『破滅・滅亡』とを対比して言いますと、一方がよくて他方が悪いというように受け取られがちですが、一方は大宇宙とか大自然の立場から大きく物事を見、他方は人生そのものを見た場合に、個々の人は亡くなり、樹木や草花も枯れ果てるが、そこに改めて出生や芽吹きがあるという点を捉えたもので、全体としては常に栄えながらも、個々においては栄枯盛衰があるというように、その基準が異なるものであることを理解して頂きたいと思います。
だからこそ、各家々においても、父や母、あるいは祖父母、さらには身内の方が亡くなられて涙し、先祖の供養にあの世の成仏を願い、人のはかなさを知って、命ある間になすべきことをなしておかねばと、心新たに決意したり発奮をし、また子や孫を始め大勢の人の誕生に祝い事をするのです。これが私たちの人生なのです。
なお、古事記によりますと『天御中主大神様』、『高御産巣日神様』、『神産巣日神様』
のお三方は、特に『造化三神』とお呼びし、格別の神様とされています。
こうしたお話は『古事記・日本書紀』の他にも、『竹内文書』、『富士古文献=宮下文書』、『東日流(つがる)外三郡誌』、『上記(うえつふみ)』、『九鬼文書』など、『古史古伝』と称される文献の中に沢山出て参りますが、そこに出て来られます最初の神様とされておられます神々様のお名前には、今一つピンと胸に響くものがありませんでした。
ですから、私としましては、『どの神様』というように、特定の神様のお名前を日々奏上するわけには参りませんでした。それでも、『本当の神様、根源の神様にはお逢いしたい、ご縁を頂きたい』ものと、日々念じ続け、当時としましては、一方的にではありましたが、大神様にお話し掛けをさせて頂いていたのです。
「お名前はわかりませんが、本当の神様、根源の神様」という思いでさせて頂き、後にはただ『大神様』とのみ申し上げるようになりましたが、日々の願い事や報告や感謝を申し上げるようにしていたのです。
そうこうしているうちに、何となく、お返事をして下さっているような感じを覚えるようにはなったのですが、それは、ただ「お返事をして下さっているのでは?」と思う程度で、その内容が、「よい」と言って下さっているのか、あるいは「ダメだ」と言っておられるのか、そういうことさえも分かりませんでした。それでも、確かに今迄とは違った感じがあるように思われたのです。
それからは、私は、
『どこかに、本当の神様がおられるはず』
と心に念じ、朝夕神様の前に跪(ひざまづ)くように致しました。
本当の神様などと言うと、大変おかしな表現になってしまいますが、別に偽の神様がいるから、本物の神様を、などというわけではありません。いわば、神々様の中でも、その中心となられる、あるいは大元に鎮座されます根源の神様とでも申し上げれば宜しいのでしょうか、そういう意味を込めて、当時の私としましては、『本当の神様』として、求めていたわけです。
もちろん、この日本の国においては、伊勢の皇大神宮に鎮座しておられます『天照大御神様』が中心の神様であり、御孫に当たられます『邇々岐命様』が、『天孫降臨』という形で、九州の日向の『高千穂の峰』に天降られまして、現在のご皇室に連なるわけですが、その天照大御神様にも、『伊邪那岐神様・伊邪那美神様』という御名の、ご両親がおいでになられるわけです。
この伊邪那岐神様・伊邪那美神様が、この日本の国をお産みになられたことになっておりますが、実際にはその前から日本の国は存在しておりまして、直前の面足神様にお世継ぎがいらっしゃらなかったことから国中が乱れに乱れてしまったのを、まさに新たに国生みをする程の思いで二神様が建て直しをなさられたというのが実体のようです。
と申しますのは、伊邪那岐・伊邪那美の二神様ご自身が、『神世七代の神様』の最後のお方ですし、更にそれ以前にも、『別天つ神様』として、五代にわたる神様がいらっしゃるのです。
こうして、その元へ元へと求めて参りますと、文献の上では古事記によりますと『天御中主大神様』、日本書紀によりますと『国常立神様』が最初のお方ということになります。
早速、神様にお礼は申し上げましたものの、人間というものは欲深いものです。よせばいいのに、今度は六月のボーナスの時にも、
「給与改定の時には、びっくりするほど上げて頂きまして、有り難うございました。でも、本当に神様がして下さったのかどうか、今一つ信じ切れないところがございます。本当に神様がいらっしゃるのでしたら、今度のボーナスも、びっくりするくらい与えて下さい」と言ってしまったのです。
昨年の十月の就職ですから、まだ一年も経っていないのです。ですから、二万円か三万円の小遣い程度のボーナスでも、まだ実績がないのですから文句は言えないはずです。それにもかかわらず、その時のボーナスは、五十七万円ほどでした。
十三万五千円の給料から二十一万千円の給料に上り、その二か月分よりも多かったのです。長く勤務していた人よりも、ずっと率はよかったのです。
さすがに、その封筒を受け取った時は、私の方が、一瞬震え上がってしまいました。他の人の分と比べてみましても、私の封筒の方が膨れているのです。年だけは取っていますが、私は新人です。それにもかかわらず、このようにして頂いたのです。
その夜、神棚に向かって、もちろんお礼は申し上げましたが、同時に、
「これは、いかん」と、思いました。
そこで、「自分の勝手で、二度も神様をお試しするようなことをしてしまい、本当に申し訳のないことをしてしまいました。もう、二度と申しませんので、何卒お許し下さい」
と、心よりお詫びを申し上げたのです。
このことは、後でわかったことですが、この二度で止めておいたのがよかったようです。『仏の顔も三度まで』と言われますが、三度目になりますと、やはり厳しいようですし、三度を越えますと、お叱りが出るのです。
『神様の過ちは一度だけ、人は三度まで』ということのようです。しかし、その当時は、こうしたことはまったく知らぬままに、運よく過ごさせて頂いたのでした。
仕事の方では、「日本で一番難しいと言われている司法試験のことだから、『一年目で合格者を出せ』というのは無理だろうけれども、三年目には、何とか合格者を一名でも出してほしい」と言われ、「いえ、初年度から合格者を出します」と言って、
「そう無理をしなさんな」
と、諸先生方に笑われましたが、結果的には、やはり一名とはいえ、合格者を出すことが出来、順調に進んでおりました。
しかし、やがて、名目上の学院長と、実質上の経営者との方針にずれが生じ、その狭間で気を使わなければならないことが起こり始め、三名の合格者を出したのを置き土産に退職し、自分で独立することにして、飯田橋に事務所を設けたのです。
ここでは、司法試験の他、弁理士試験の講座をも併せて行ったのです。
噂であろうと何であろうと、とにかく話し合いはあるのだと思い、話し合いの当日の朝、私は、今から考えますと、えらいことをやってしまったのです。
それは、神棚に向かって、
「神様、今日、給与の改定について、経営者の方とお話し合いがあります。つきましては、大変勝手なお願いではございますが、もし神様が本当にいらっしゃるのでしたら、いえ、信じていないわけではないのですが、はっきりと信じたいと思いますので、本当に神様がおいでになられるのでしたら、私がびっくりするほどお給料を上げて下さい」と、お願いをしたのです。
私は、二月頃から、単なる事務だけではなく、
「法律をやっているのだから、民法を教えて欲しい」
ということで、司法書士の講座のほんの一部を担当しており、しかも当日がその講義の日に当たっていたため、給与改定の交渉は、私が一番最後になりました。
私の授業の終わるのを待って交渉に入ったのですが、その時の交渉の結果上げて下さったのが、なんと七万六千円でした。「おーっ、上がったな」と思いました。
十三万五千円の給料に対して、七万六千円のベースアップです。と言いましても、時代と共に貨幣価値が変わってきますので、皆さんにはピンと来ないかも知れませんが、率で言いますと、五十六パーセントから五十七パーセントアップになるのです。
もともとの月給が安いからとは言え、五割を超えるベースアップは、そうざらにある話ではありません。
話し合いが終わり、二人でそれぞれの席に戻り、お茶を飲んでおりますと、私の斜め前に座っていた経営者が、「すーっ」と席を立って出て行ったのです。
「全員の話し合いが終わったはずなのに、今頃どこへ行くのかな」と思っておりますと、机の上の電話が鳴りましたので受話器を取ると、その経営者からの電話でした。
わざわざ外へ行って、公衆電話からかけてきたのです。
「すーっ」と息を吸い込む音と共に、遠慮がちに、
「藤原さん、今の話だけど、端数の六千円だけ削らしてもらえないでしょうか」
と言うのです。
経営者にしても、やはりおかしいと思われたのでしょうね。普通なら、それで応じるはずなのに、私は、すかさず、
「ああそうですか。ではもう一度話し合いしましょう」
と言っていたのです。すると、
「いえ、結構です。そのままで結構です」
と、慌てた様子で電話は切れ、結局そのままの額で決定したのです。
その合格通知を頂いて出社したのは、
「一月以内に、就職するね。それも、法律に関係する仕事だよ」
と言われてから、二十九日目の月曜日でした。
司法試験という新しい講座を開設するだけあって、あれもしなければ、これもしなければということで、「この方にご連絡をしなければ」と、気にかけながらも仕事に追われているうちに、数日が過ぎてしまいました。
五日目の金曜日の午後、そろそろこの方にご連絡して、今度の日曜日あたりに、就職が出来たことのご報告を兼ねて、お宅にお伺いしようと思っていた矢先、この方が、突然勤務先に訪ねて来られたのです。
いやぁー、驚いたのなんの。まだ、就職先もお伝えしていないのにです。この広い東京の中で、そりゃあ法律関係のところに絞られるとはいえ、法律関係には弁護士さんの法律事務所もありますし、
「よくもまあ、ここがわかったものだ」と感心しておりますと、
「そりゃあ、わかるよ」と、涼しげにおっしゃられるのです。
そこで、「私がお宅にお伺いする時もそうでしたし、今回のことと言い、私のことは全部おわかりなのでしょうか」と、お伺いしますと、
「私も、それ程暇じゃないよ」と、軽く笑われ、その日ご自分の家に来られる方とか、この方が「あの人はどうしているかな」と思うと、その方の様子がわかるのだというのです。
「四六時中、君のことばかり考えているわけじゃあない」
とのことでした。それにしても、凄いものだと、ほとほと感心をしたものです。
ただ、月給は安いものでした。当時大学卒の初任給が、十一万円そこそこだったかと思いますが、私の給料は、十三万円五千円前後でしたから、あまり、公務員としての経験などは考慮されず、若干年が行っているということで決められたかと思います。途中採用なのですから、やむを得ないのかも知れません。
仕事の内容は、忙しかったけれども、おもしろかったですね。やはり、好きな法律のことをさせて頂くのですから。
それから、半年ほど経って、三月の半ばに、四月からの給与について、経営者が各
人と個別の話し合いをするということでした。もっとも、それは、
「名目だけですよ。あんなことやったって、一万円以上上がった人はいない。一万円超えた人が、ここが始まって以来というのはわからないけど、とにかく二万円以上ということは、絶対にない。最高で一万円しか上がらない。形だけみんなの話を聞いたという格好をとるだけだ」
という、職員達の専らの噂でした。
この方が、「藤原君、君は一月以内に、就職するね。それも、法律に関係する仕事だよ」
と言われたのです。
内閣国防会議事務局(現内閣安全保障室)を退職してから、数年を経過していましたから、
「どういうところかな」
と、期待と不安がありましたが、数日経っても、一向にその気配はありませんでした。
十日程経って、司法試験の受験雑誌を見ていますと、そこに司法書士と宅地建物取引主任者の講座を設けている各種学校で、新しく司法試験の講座を設けるための人員募集の広告が載っておりましたので、早速そこへ出かけて行きますと、
「昨日、試験は終わりました」と言われてしまいました。
「ああ、ここではなかったのか」
と帰りかけますと、かなり年配で恰幅の良い総務部長という方が出て来られて、
「藤原さんは、松山の方のご出身ですか。私は、以前松山の、ある紡績会社の工場長をしておりまして」
と話しかけられました。
世間話を三十分もしておりましたが、試験の終わったところに長居をしても仕方がなかろうと退出しかけますと、
「もし、藤原さんさえよろしければ、履歴書をお預かり出来ませんか。近いうちにもう一度試験をするかも知れませんので」
と言われたので、履歴書をおいて帰りましたところ、五日程して、
「明日試験をします」
との電話があり、翌日受験に行ったのです。
すると、大学生や大学を卒業して二三年くらいの若い人達が、三十数名も来ているのです。三十半ばの者は私一人ですし、採用予定者も一人ということでしたから、
「こりゃあ、とても無理だろう」
と思っていましたところ、案に相違して、私が採用されたのです。
後で言われましたのは、
「一字も間違いがなく、丁寧な文字と文章だったから」とのことでした。
後に、弘法大師様が中国へ渡られた時の師と言われております恵果阿闍梨様が、「言葉あるも伝え、言葉なきも伝え。只今から悟りの境地を体験なさられよ」と言われて、ゆったりとした大河を行くような、また母の胎内にいる時のような、あるいは高い山の空気の澄んだ林に囲まれて、春の日差しを受けているような、さらには大宇宙そのものの中にいるような、広々とした、落ち着いた暖かいものを感じ、これが悟りの境地というものかと実体験させて頂いたことがありますが、「手を取って教えることだけが教えではない」と感じさせて頂きました。
また大神様が、「信仰の世は去った」と言われ、
「人の言うことを仰ぐ信仰ではなく、直接神を仰ぐ神仰とせよ」
と言われたことを、事前にその当時、この方は間接的に私に伝えておられたのではないかと、後で思いました。
そのお陰で、私は、こうして人を介してではなく、直接神様に接することが出来るようになったのだと思います。
数年後に、この方にこのことを申し上げましたら、
「あなたを神様にお繋ぎするのが私の役目で、あなたが『する』気になった以上、私があれこれと余計なことを言うよりも、あなたが直接神様から受け取られる方がよいと思ったからです」と言われました。
今では、何とお礼を申し上げればよいのか、本当に感謝の極みでございます。
人と人とのよき縁、よき人との出会いは、人の一生をも左右致します。
私は、今でも小中学校の時からの恩師堀井先生ご夫妻、大学の時からの恩師である木川統一郎先生、そうして防衛庁に奉職以来のこの久保田健義先生ご夫妻と、それぞれ人生の節目節目に、素晴らしいお方との巡り会いをさせて頂きました。
そのこと自体が、私の生き方に、どれほど大きな影響を与えて下さり、また私の今日を築き上げて下さったことか。
人は、意識するとしないとに拘らず、こうした方々の影響を受けて、自分の人格を形成しているのです。もちろんこうした特定の方だけではなく、いろいろな周りの人達との接しそのものが、人生に必要欠くべからざるものであります。
それが、ご自分の人生に、プラスとして作用するか、マイナスとして作用するかはその接し方如何であり、人に対して影響を与える側に回るか、影響を受ける側に回るかによっても、大きく変わって来るかと思います。もちろん、このように一律に割り切られるものだけではなく、人と人との接しというものは、相互に影響し合うものです。
それ以後は、神様の方で、直接私自身をご覧になられ、その適否を判断なさられることになったのでした。
「理屈の上で負けた以上はと言うか、即答出来ない以上は、潔く兜を脱ごう」
こんな思いで、
「では、やってみます。宜しくお願いします」
と、お返事をしたのです。
このお返事一つにしましても、本来ならば「させて頂きます」とか「させて頂きたいと思います」でなければならないのですね。
でも、まだその当時は、神様のことは何もわからない状態です。だけど、この方がおっしゃられるのだから、この人だからという、このお方のお人柄に惚れて、この人だからついて行こう、という部分の方が強かったかと思います。
ところが、私が「する」というお返事をした途端、今まで手取り足取り教えて下さっていたのが、ピタリと止まってしまって、何も教えて下さらなくなったのです。
これには、面食らってしまいました。
「騙されたと思って、とにかくやってごらん」
とおっしゃるから、やってみようという気になったのですが、それからは、サッパリと教えて下さらないのです。
今までは、こちらにする気がなくても、独り言のようにいろいろとお話をしておられましたが、当時は私もある意味では軽く聞き流していましたので、それらの事柄を、改めてよくよく思い出してしなければならなくなったのです。
唯一、その後に教えて下さったのは、
「教団に深入りすることはないけれども、『手かざし』の方法は、学んでおきなさい。これは、昔から神道においてしていたことだから」
と言って、ある教団にご紹介下さったことかと思います。それも、
「身元のしっかりした人でないと、君も心配だろうから」
と言って、ある有名な人間国宝の方のご長女のところに案内して下さったのです。
このお方は、私がすると言った途端に、何も教えて下さらなくなり、私としては大変戸惑いましたが、実際にそうなったからこそ、今までこのお方はどんな話をされ、どうなさられていたのかを、必死になって思い出し、わずかに覚えていたことを真剣にさせて頂くという結果を頂いたのです。
ところが、何回目かにお伺いした時、この方が、
「君の論法だと、今日は放送局は休みだね」
と、唐突に言われたのです。その意味を解しかねた私は、
「はあ?」
と、言いますと、
「放送局は、放送しているけれども、ここにテレビがないから、見たり聞いたり出来ないのと違うかね。もちろん、テレビがあっても、スイッチを入れなきゃ駄目だがね。スイッチを入れても、チャンネルが合わなきゃNHKを聞こうと思ってもNHKを聞くことは出来ないし、民放を見ようと思っても、民放に合わせなきゃ民放を見ることは出来ないのじゃないかね」
と、おっしゃるのです。
このお言葉の中には、「神様の世界を知るにも、こうした段階があるよ」ということも暗示して下さっていたのでしょうが、この時には、そうしたことを知る由もありませんでした。
「うん、なるほど理屈はそうだけど」
と感心しておりますと、すかさず、
「神様も同じだよ。神様は人類の親だから、子供のことを心配して、常に私達に話しかけをして下さっているんだよ。だけど、こちらが受け取るチャンネルを持っていないから、わからないんだよ」
「えっ」
「その気になって、神様と気持ちを合わせれば、神様からのお話を受け取ることも出来るんだよ」
とおっしゃられるのです。そうして、すかさず、
「理屈はいいから、騙されたと思って、とにかくやってごらん」
と言われ、いつもはなんだかだと反論していたのですが、この時ばかりは何にも答弁出来ませんでした。
私が経験した国会の各委員会の応答などは、その場その場において即答をしなければ、「休憩」と言われてしまうと、次はいつ再開されるか分からないので、後から考えれば理屈のつくことでも、即答主義でなければならないという事に慣れていたので、
「いやぁ、参った」
と、思いました。
私が連絡なしに、夜遅くお伺いしましても、サッとお吸い物が出され、続いて鰻のお重が出されたり、お鮨が出されたりして、
「いえ、結構ですから」
と遠慮申し上げますと、
「いや、君がまだ食事をしていないことはわかっているのだから、遠慮は要らん。さ、お上がり」
と、勧められていますと、奥様が、
「今日は、朝から、主人が『藤原さんが見えるから』と言っていたんですよ。でも、一向にお見えにならないので、先程主人に『お見えになられないじゃないですか』って言いましたら、『いや、何か用を頼まれて、寄り道をしているようだから、間もなく見えるよ』って言うものですから、用意してお待ちしていたんですよ」
と言われたりしたのです。
事実、その日は、母校の中央大学で、恩師である木川統一郎先生のところまで書類をお届けするように依頼されて、御茶ノ水の事務所にお寄りしていて遅くなったのです。それにしても、今日訪問することそのものをお伝えはしておりませんでした。それなのに、朝からわかっておられたというのです。
それも、こうしたことが一度や二度ではないのです。お訪ねして、タイミングよくお膳が並べられた時にも、
「『ああ、今着いたよ』と主人が言うものですから」
と、奥様は笑顔で言われるのです。
駐車場とこの方のお宅とは、少し離れているのですが、私が車を止めると、「私に憑いている霊が、一足先にやって来るので、それでわかるのだ」と言うのです。
こうした、当時としては、大変不可思議なことを体験させて頂いてはおりましたが、そうかと言って、すべてを信じたというのでもありません。
その頃の私は、明治神宮や鎌倉の鶴岡八幡宮に、時折参拝に行っていたくらいで、この方から神様のお話を伺う以外の日常は、神様とは全く無縁の生活をしていました。
現在、私が、いろいろな体験談を皆さんにお話致しましても、
「それは、先生だからですよ」とか、
「先生は、特別だから」
と、受け取られてしまうのと同じように、神様の存在につきましては、当時の私は自分とは関係のない世界の話という感覚しかありませんでした。
ですから、このお方に対しましても、いろいろと理屈を言っては、折角のお話もお断りしていたのです。
この時の大隊長こそ、お電話を下さったまさにこのお方なのです。奥様の言われた「部下部下、ドンドン」というあだ名の、面目躍如たるものがあるではありませんか。
それだけに、全国にこのお方の姓をとって、『久保田会』というものが、たくさんあるということでした。それも幹部の方の久保田会と、一般兵の久保田会が全国にあるのですから、そのお人柄が窺えるというものです。
実際に、私がこの方のお家を訪ねている時にも、四国の宇和島の方から、この方をお迎えするために、「家を建て替えるところまでは出来ませんでしたが、すべての畳替えをしましたので、お待ちしております」というお電話がありました。
冒頭の電話は、このお方からのものだったのです。
「久し振りだから、防衛庁の喫茶室でどうかね」
ということで、三日程後に、防衛庁の喫茶室でお会いさせて頂きました。
いろいろとお話をした後、
「ところで、一度家に来ないかね。家内も会いたいと言っているから」
ということで、次の日曜日にお伺いし、それから再び時々お邪魔をするようになつたのです。本当にこのお方のお人柄といい、奥様のお人柄といい、知らず知らずのうちに人の心が惹きつけられる素晴らしいご夫妻でした。
そのうち、この方から、
「少し、神様のことをしてみないかね」
というお話が出るようになりましたが、防衛庁や内閣では、法律を作ったり、国会答弁書の作成のお手伝いをしたりしていたものですから、理屈にかけては人一倍強かったかと思います。
ですから、「神様と言われましても、なかなか信じられません。とにかく、目に見えないものは、わかりませんので」
などと言って、みなさん以上に、強く拒絶をしていたのです。今から考えますと、大変畏れ多いお話です。
しかし、不思議なお話や、不思議な体験をさせて頂いてはいたのです。
例えば、このお方が、
「伊勢神宮にお参りをしてきたけれども、今回は天照大御神様はお留守だった」
などと言われるのです。皆さんは、信じられますか? 私だって、
「そんな馬鹿な。何で神様がいらっしゃったとか、お留守だったなんてことがわかるのだろうか」
と思ったのです。
私が、防衛庁に入って間もなくの頃、この方のお家に初めてお伺いをした時、奥様から、「主人のあだ名を、ご存知ですか」
と問われ、日頃の謹厳実直なこのお方に、あだ名などあるのだろうかと思いながら、
「存知ません」
と申し上げると、
「ブカブカ、ドンドンって、言うんですよ」
と、笑いながらおっしゃられて、
「なんだかチンドン屋のような、変なあだ名だなあ」
と思いましたが、その意味は、部下のこととなると、いわゆる目がないという意味だったのです。
その後、私が陸上幕僚監部の職員人事を担当していた頃、昼休みに所要があって他の課の庶務係長のところに参りますと、当の係長のところに、大勢の人だかりが出来ており、仕方なく待っている間に、それとはなしに聞いておりますと、この係長は、戦前に近衛の小隊長をしておらた時の話をしていたのです。
彼の話によると、部下が喧嘩をして、こともあろうに、陛下から拝領の銃を折ってしまったというのです。当時のことですから、
「これは軍法会議もので、大変なことになる」
と、真っ青になり、ただちに中隊長に報告したところ、中隊長も、
「こりゃ、大変だ」
ということで、喧嘩をした当の二人と、中隊長と小隊長であるこの係長が、おそるおそる大隊長の前に出て報告をすると、大隊長は、ことのいきさつをじっと聞いておられたが、「互いに陛下のことを思う余りに激論となり、してはならない銃で喧嘩をしてしまった」ということだったのです。
その経緯を聞き終られると、大隊長は、しばらくじっと目を閉じておられましたが、やがて静かに、「ことのいきさつはよくわかった。二度と起こさぬように気をつけなさい、それじゃ」と言われたというのです。
「軍法会議に送られて、大変なことになる」
と、それこそ首を洗って大隊長の前に出ていた四人は、あっけにとられて、しばし呆然としていたということです。
それ以来、何のお咎めもなく、事なきをえたそうですが、それはこの大隊長が、
「武器納入の際、ひびが入っていたことの点検確認を見過ごした自分の責任である」
として部下をかばい、ご自分の責任として処理をされていたというのです。
この係長も、この時のことが忘れられず、こうして何十年も過ぎて後、若い方達に話しをしておられたのです。
この方の場合は、神様のことはもちろんですが、易もしておられまして、それも一師相伝としてのもので、本来は別のお方に伝授されるところを、
「何とか、国のため人類のために役立つものとしてさせて頂きたい」
と願い出られて、ようやく伝授されたものですから、いわゆる易者さんの易とは、
まったく異なるもののようで、企業の大切な将来の見通しや、計画の是非の判断等には、欠くことの出来ない重要な意味を持っていたようです。
それで、こうして歴代の社長が、自ら
「もう少し、いて欲しい」
と言っては、迎えに来られていたのです。
七十歳になられてから、この方は、
「神道をもっと本格的に学び、正式に神様にお仕えをしたい」
と言って、常勤から非常勤にして頂き、國學院大学の神道科の夜間部に通われたのです。
この方は、お歳をとられ、大企業の重役であられましたが、
「自分は、生徒だ」
と言って、少し早目に会社を出られ、一番に教室に入られて、全部の机の上を拭き、教室の掃除をなさられたということです。
これは、言うは易くなかなか出来ることではありません。大企業の重役ともなられますと、大方の人は、ふんぞり返って聴講し、特別扱いを期待するのでしょうが、この方は、
「教えを請う」
という生徒の原点に立ち返り、年若き先生を迎え、他の生徒さんを迎えたというのです。
『実るほど 頭を垂れる 稲穂かな』
とは、まさにこういうお方のことを申すのでしょう。
この方は、「自分はもう年をとっているから、五年計画で神官の最高位の試験を目指そうと思う」と言っておられましたが、古事記などは奥様が担当し、その要点をご主人に伝えるというように、奥様との二人三脚で、一年で合格されました。
そして後日、「いやぁ、実に不思議なんだよね。試験の一週間くらい前になると、ふと『ここをよく読んでおきなさい』という声が聞こえてくるというか感じがして、そこを読んでおくと、それが全部試験に出てね。そのお蔭と家内のお蔭で合格出来たんだよ」と言って、笑っておられました。
この方は、真冬でも毎日水垢離をなさられていたので、「自分は大丈夫ですから」と申し上げたんだけど、二月の伊勢神宮の五十鈴川での禊は、「ご高齢だから」ということで、六月まで延期されたということでした。
この方は、私が防衛庁に職員として採用になり、当時横浜の桜木町駅近くで、MDAPの荷役を担当していた陸上自衛隊の京浜港湾処理隊の初代の隊長であった久保田健義氏です。戦時中は昭和天皇様の直接の身の回りのことを担当された近衛の第一大隊長をなさられたお方です。
私が防衛庁に入った時から、ずーっとお世話になった方だったのですが、私が防衛庁から内閣の国防会議事務局へ出向する頃には、朝霞の陸上自衛隊の輸送学校長兼駐屯地司令をされており、そこを最後に退職をされ、大手の企業に重役として勤務をされるようになられてからは、十年近く年賀状だけのご無沙汰になっていたのです。
この方は、福岡県の久留米市から少し山の方に入った神社のご出身で、奥様が私と郷里が同じ愛媛県の松山市の大きな神社のご出身ということで、以前には何度か官舎にお伺いをしたことがありましたが、当時はトンと失礼をしていたのです。
私が防衛庁に入った頃に、この方は丁度お名前を変えておられ、当初は「次良」という以前のお名前と、「健義」という新しいお名前の両方の書類が届いたりしていましたが、
「この名前に変えると、七十歳まで重役でおれるというのでね」
と言って、ご自分でも笑っておられましたが、十年ほど実際に新しいお名前を使用されてから、裁判所に申し出られて、戸籍上も新しいお名前に変更されたのです。そうして、実際に七十歳まで大手企業の重役でいらっしゃいました。
この企業自体は、重役の方でも六十歳で定年のはずなのですが、人事の方から、「いついつまでで、退職です」と言われておりましても、翌日社長自らが迎えに来られるということで、人事としましては、「では、この社長の間だけ」ということで出社しておりますと、次の社長も、やはり迎えに来られるということで、この繰り返しをしているうちに、七十歳になられたのです。
私の本名は、藤原一志なのですが、この方のこのお話を伺って、この方が本庁へ転属される時に、「私の名前も考えて頂けないでしょうか」と申し上げて、いろいろとして下さったのですが、その時は「よい名前が浮かばないので、後日考えておこう」と言われたまま転属されてしまいました。
忘れもしません。昭和五十年の八月七日に、
「田舎でも、ちゃんと先祖供養をしているけれども、お前は長男なんだから、東京でも先祖供養をしてくれないかね」
と言って、母親が四国から上京してきました。
母の言によれば、私はヨチヨチ歩きの頃から、お仏壇にお茶をお供えしていたということです。歩くのがやっとの頃のことですから、お茶をこぼすといけないので、母が、
「母さんがするからいい」
と言っても、
「ウーウン」
と言って、自分で持って行っていたそうです。
母はいつもハラハラしながら、私のすぐ後をついて歩いていたそうですが、余りにも幼い頃の話ですから、私にはそうした記憶はありません。
私の記憶では、幼稚園の頃からはそうしていたなという思いはありますが、そのことは高校を卒業して上京するまで続いていました。
特に、印象強く残っておりますのは、中学の修学旅行で、京都・奈良に出かけた際に、奈良で大仏様のミニチュアを買って帰り、母親に、
「この子は、変わっているね。みんな羊羮だの煎餅だのお饅頭だのと、お菓子のお土産を買ってくるというのに」
と言われたことです。母は、この時の大仏様を、大切にお守りしてくれましたので、今でも田舎のお仏壇の中に安置されています。
ですから、母親のこの申し入れに対しましては、一も二もなく、すんなりと 「では、そうします」
と受け入れたのです。
その翌日のことです。つまり、昭和五十年の八月八日、それも正午に出かけようと準備をし、テレビの時報が「ツー、ツー」となり始めたので、大急ぎで玄関に出て靴を履いている時に、「チン」という時報の音をかき消すように、「リリーン、リリーン」と、電話のベルが鳴ったのです。
受話器を取ると、
「藤原君、先祖供養をしているかね」
という第一声が聞こえてきたのです。
このお方のお人柄から言って、当然時候の挨拶をされたはずなのですが、この時の私には、先祖供養のことが余程印象的だったようで、第一声が、先祖供養のことだったように記憶しています。
受話器を取ろうとしてそばにいた母親にも、その言葉が聞こえたようで、自分が先祖供養をして貰おうと思ってやって来た時に、
「先祖供養をしているかね」
と言って電話がかかって来たのですから、母もびっくりしていました。私が受話器を置くのを待ちかねたように、母親は、
「今のは、どなた」
と尋ねたのです。
「神様のお姿が見える、神様からのお声が聞こえる」と言うと、皆さんはどう思われるでしょうか? チャネラー? 霊能者? 私自身「神様からこのようなお伝えが・・」と言うだけで、怪しげな眼で見られたり、「あぁ、霊能者ね」と片付けられてしまうことが多かったのです。
いろいろな神社の宮司様方とお話を致しましても、「昔はそういうご神示とか、お伝えがあったかも知れないけれども、この文明の世にそういうことはあり得ない」と言われたのです。
「昔の素晴らしく清らかな空気やきれいな水の頃でさえ、神様はいろいろとお伝えを下さったのに、今のようなこの世を、神様は『よし』とされるでしょうか。以前にもましてお伝えをしてくださっているのではありませんか」と申し上げても、なかなか理解出来そうにありませんでした。
神社界の人でこうなのですから、一般の皆様に「眼に見えない世界からの声が聞こえる」と言うと、皆さんはどうしても霊能者かいかがわしいものと一律に感じているかもしれませんね。
でも眼に見えない世界からの声は、神様からのお言葉もあれば、如来様や菩薩様といった仏界からのお言葉もあり、自分を導いたり、直接守ってくれる成仏されたご先祖様からの声もあれば、反対にまだ成仏していないご先祖様などからの訴えの声、俗に地縛霊と呼ばれる事故などで不幸にも命を落とされた方からの訴え、また動物霊からの働きかけまで、本当に千差万別です。
本当の神様からのお声ではなく、動物霊に操られてはいませんか? 昔話で、旅人が夜、野原で饅頭を見つけて、喜んで食べたら、馬の糞を食べさせられていたという話がありますが、でもそれは、昔話だけではないのです。今でも、そういう働きかけはきているのです。
テレビで霊能者と称する人が、出て行っているものの中には、私には「これが神様か?」と目を疑いたくなるような番組があります。
ずっと以前に、なんと「私には、天照大御神様がのり移っている」という神様の化身と称する人は、スイカを割ってわしづかみにして食べ、そのあとにお酒を入れてがぶ飲みをするという志垣太郎さんの番組がありましたが、天照大御神様が、そのようなことをなさられるでしょうか。神様に対しても失礼なことですし、企画する人も放映する人も、一考すべきではないかと思います。
今の世の、目を覆いたくなるような事件等についても、神様は大変憂いられ、お嘆きです。また、同じ神様と言いましても、本来の神様の他に、平安時代に魑魅魍魎のようなものまで、怖いものや不安なものを神に祭り上げてしまったものがたくさんあり、それに乗じていろいろな新興宗教が、信仰の自由に名を借りてはびこっていますので、皆さんとしては、一体何を信じればよいのか分からないという部分があると思います。
そうした意味で、私がどのようにして神様に巡り会えたのかを披露申し上げ、素晴らしい日本人本来の姿に蘇って頂きたいと思い、『本当の神様を求めて』と題して、明日の立春祭を期してお伝えを致します。
立春は、二十四節気の一つですが、神様の世界のお正月です。夏も近づく八十八夜とか、九月十日なども、この立春から数えてのことです。乞うご期待!