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2008年2月22日 (金)

神様は、心の待避場所ではない

私は、お名前はわからないながらも、『大神様』とお呼びし続け、日々念を通して求め続けてはおりましたが、時には近くのお寺で早朝禅をしているところへ出かけて行ったりしましたが、残念ながら、私は股関節が固くて足が組めないので、座禅の何たるかを味わう前に、数回行ったきりで止めてしまいました。

 また、親しい人の誘いで、いわゆる新興宗教と言われるものにも顔を覗かせたりしました。しかし、そこで見聞きしたことは、本当に神様を求め、あるいは神様のところに来ているのだとの自覚のもとでなさられているとは思えませんでした。

 なかには、個人的にも大変親切にして頂き、人の世界としてみたときには、今でも大変有り難かったなと思うお方もいらっしゃいましたが、そこに集まられ、出入りしている方の中には、あまり感心できない人も大勢いらっしゃったように思います。

 自分の求めている神様に出会うまでは、あちこちと迷い道をされるのかも知れませんが、いわゆる『神馴れ』とでも言うのでしょうか、神様を友達のような感覚で接している方もいれば、反対にこわごわと本当におそるおそると言いますか、いつも叱られているような態度で接している方もいらっしゃいました。

 また、全体の空気としては、同病相憐れむように、互いの悩みを打ち明け合い、慰め合うという感じの方が多かったと思います。それも一つの過ごし方かも知れませんが、それはあくまで人の側の都合のように思いました。

 みんな、それぞれ病気とか、倒産とか、夫婦間の問題や家庭内のいざこざとか、そうした悩みがあるからこそ、そうしたところに縋りに来るのでしょうから、その時その時を、互いにいたわり合い慰め合うということも、大切なこととは思います。

 ですから、そのすべてが悪いというのではありませんが、その時々の苦しさや悩みに心奪われて、その場その場での慰め合いに終るのでは、単なる人生相談なり、仲間内の会合に過ぎないのではないでしょうか。

お互いに淋しさや悩みを分かち合うという場面が多く見受けられました。そこに出席するあるいはそこのメンバーであるということで安心感を得、満足しているのです。それも人それぞれで一つの生き方かも知れませんが、私の求めるものとは程遠い感じでした。

 

 求めているのは、そうした慰めや、一時的な心の苦しさの避難場所ではないのです。そうした方々に出合うのも、一つのご縁ではありますが、私は真実の神様を求めて進みたいと切望してやみませんでした。

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