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2011年6月の4件の記事

2011年6月27日 (月)

第12話 天命を知る年は、十五才 

今、成人式は二十才ですが、かつて男子の成人の儀式は、『元服』といって十五才で行なっていました。

実は、人が天命を知り、それに向って人生を進んで行くのは、この十五才だと言われています。本当ならば、その年までに「人としての基礎」を学び、十五才からは「自分の天命、適職に合わせての学びや鍛え」をしていくことが、人生の歩みとして正しいのです。

しかし、現在の十五歳は、高校一年生です。それに目を向けて、考えたり、調べたりする人はほとんどいません。

「自分の適職は?」「自分は何に向いているのだろうか?」などに目を向ける機会や、指導をしてくれる方は、学校でも社会でも、家庭でも、ほとんど無いままに過してしまいます。

そしてクラブ活動に夢中になるか、あるいは受験校で大学受験に向けて、ひたすら勉学に励むか、しかしそれも何になりたいから、その為の学びとしてするのではなく、大学に入るためだけに勉強しているのではないでしょうか。

しかしそれでは、人生の目的が、何なのか、何を目指し進んだらいいのかが分からないまま大事な時間を過すことになってしまいます。

成人は、二十才、大学卒業は二十二才、それまでは適性・適職に目を向けないで過してしまうと、その五年間、七年間は、人生にとってものすごく大きな損失になります。

「鉄は熱いうちに打て」と言いますが、十五才で天命がはっきりした直後の数年間は、最もその適性を伸ばしたり、磨いたりするのに効果の大きい時期だからです。

大人になって「自分は果たしてこの会社で一生を終えるのだろうか」「こんな事をしていていいのだろうか」と悩み、生き甲斐もなく、ただただ給料日と週末の休みのみを楽しみにして人生を過すことになってしまいます。

しかしそんな人は、会社でも不要ですから、真っ先にリストラ要員にされてしまいますね。

また、今まで順調に来ていたのに、高校に入った途端に、突然失速するお子さんが出ることがありますが、ただ新しい学校になじめないだけでなく、自分の天命にあっていない学びを拒否する、感性の良いお子さんにそうしたことが起きることがあります。

そんなときは「今まで明るかったのに、どうして?」「何でそんなに気力がないの」と責めるだけでなく、「この子は、本当は何に向いているのだろうか」と見てあげて下さい。今問題のイジメということも考えられますが、そうでなければ、その子に合わないことを学ばせている可能性もあるからです。

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2011年6月20日 (月)

第11話 伝統には、深い意味がある

日本人は、子供のことを「子宝」といい、「神様からの授かりもの」という受け止め方をしてきました。

そして神様に、子供の成長を報告し、健やかな成長を祈る習慣がありました。

だから子供が生れると、命名したわが子の名前を神棚にご報告し、初宮参りや七五三のお祝いの時には、神社に出かけ健やかな成長を祈ったのです。

日本に昔からあるそうした伝統は、神様との大切なふれあいであると共に、お子さんの人生に新しい力を加えて頂く、大事な節目の時でもあります。

「三つ子の魂、百まで」「男女七歳にして席を同じゅうせず」という言葉がありますが、実は深い意味を持っています。

子供さんは、お七夜のときから、三歳の誕生日までは、「神様の懐の中で育てられる」と言われています。

実際には、昼も夜も、おっぱいを上げたり、オムツを替えたり、お母さんにとって、一番手がかかるときですが、そのときに真心をこめて子供さんに接していると、それは当の子供さんより、それを守ってくださる神様が、直接受け取られ、そしてその何倍も神様がお力を加えてくださる時期でもあります。

三歳前の記憶がある人は、ほとんどいないと思いますが、それは神様の懐に入っている時期だからです。

そして三歳の誕生日の時に、神様は、懐からそのお子さんを出して、大地に下ろし、そのときに新たに「三つ子の魂」と呼ばれる力を加えてくださるのです。

そしてそのとき加えていただいた三つ子の魂を七五三の三歳のときに、さらに祓い清めて、清らかに、健やかに、そして力強く育っていかれるようにしてくださっています。

そして五歳で、男の子は、男の魂を、七歳で女の子は、女の魂を授かります。

わかりにくければ、精神的な「男らしさ」「女らしさ」と受け取っていただいても、よいと思います。

生まれたときに、肉体としての男女は決まっていますが、精神的な男女の区別は、この七五三の時に授かるのです。

昔の言葉で「男女七歳にして、席を同じゅうせず」は、今の人が聞くと、とても封建的に聞こえるかもしれませんが、精神面でも、男女がはっきりと分かれるので、本来はそれに合った「男は、男としての」「女は女としての」教育が必要だという意味もあったのではないでしょうか。

単なる伝統行事と思われていますが、今、「男の魂」が入っていないために、テレビでも男の人が、女性の格好でそれを売りにしたり、女性が「女の魂」が入っていないために、貞操感やつつしみという感覚を持たず、援助交際や夜遅く道路で平気で寝てしまったりということが起きています。

いろいろな社会現象をその目で見ていると、「あぁ、なるほど」と思われることは、たくさん出ていると思います。

昔からの伝統行事の中には、その意味を知れば驚くような大事なことがたくさんあるのです。

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2011年6月13日 (月)

第10話 正式参拝とは

普段お参りする参拝とは別に、正式参拝があるのをご存じでしょうか。 本当に大事なお願いの時には、この正式参拝でご祈願をするとよいのです。

正式参拝の時は、神社の社務所に行き、お玉串料をお納めします。神主さんが祓いをしてくれた後に、太鼓を叩いて正式に神様に降りてきて頂き(降神の儀)、お榊として渡されたお玉串を奉奠した後、その方のお願い事を、祝詞をあげて繋いで下さいます。

皆さんがされる正式参拝は、赤ちゃんが生まれてはじめての初宮参りや七五三、結婚式などが多いかと思います。神前結婚は、神社で行なう場合と結婚式場で行なう場合がありますが、それも正式参拝です。

それ以外にも、人生の大事なお願いの時、たとえば会社設立の時や、大事な仕事に取り組むときなど、緊張と共に清々しい出発となることと思います。

スポーツの大会前などに祈願される方も多いかと思います。「優勝出来ますように」という願いが、主かとは思いますが、「ケガ無く、努力した力を十分に発揮出来ますように」とお願いします。

 正式参拝の時には、そうした願いに華を添えるが如くに、巫女さんがお神楽を舞ってくれるときもあります。お神楽は、神様への舞いです。

お神酒を頂き、最後に太鼓を叩いて、神様は元の所に戻られます。(昇神の儀)

これらの順番は、神社によって前後する場合があります。その時には、それぞれの神社の指示に従って下さい。

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2011年6月 6日 (月)

第9話 神社参拝の仕方 その3 お賽銭と柏手 

お賽銭につきましては、神道一般では、神様への供物の一つとして解され、神社参拝の折りや神輿の渡御などにも献ずるものとされています。

そのため皆さんも、神社に行ったら、「お賽銭を投げて、神様にお願いをするもの」と思っておられる方が多いのではないでしょうか。

 

しかし、お賽銭の本来の意味は、ご自分の汚れや穢れを、そのお賽銭に託して祓うためのもので、神様にお願い事をするためのものではありません。

ですからお賽銭を入れるときには、ご自分の心の迷いや、怒りなどを吹っ切るつもりでして下さい。『明鏡止水』という言葉がありますが、自分の心が鏡のようになって、初めて神様に通ずる道が開けるのです。

 

 またお賽銭の金額ですが、自分の思いをそれに託してすると良いのです。

ご縁がありますようにと、五円、手を合わせるという意味で、十円と言われています。十円は、かつては拾円と書きました。(拾=手を合わせる)

ただ、今の貨幣価値では、五十円、百円でしょうか。

 私は、伊勢神宮を始め、全国のいろいろな神社のお参りをしますが、一つの神社に年に一回の所や数回のお参りしか出来ませんので、「出来ればこの一回で何回も来たことにさせて下さい」と言う気持ちを込めて手を合わせますので、五百円ずつお入れしています。

かしわ手を打つ

 お賽銭を入れた後に、二拝二拍手一拝を致します。(二回お辞儀をし、二回かしわ手を打ち、もう一回お辞儀をします。)神社によっては、四拍手などのところもありますが、二拝二拍手一拝が原則です。

神様に届くように、パーン、パーンと気合を込めてかしわ手を打ちます。軽くパンパンと打ったり、ペチペチとした音を出していては、神様には届きません。

神様に届いてこそのご挨拶であり、お願い事です。ぜひ神様に通じますようにとの思いで、気合いを込めて柏手を打って下さい。 

        今日の一日一言は、

851話 人生、当たるも八卦でよいのか?

左のリンク集より、見られます。

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