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2011年8月の5件の記事

2011年8月29日 (月)

第21話 世の中のお役に立てる人になれ 

現在、「仕事とは?」と尋ねると、「金儲けのため」と答える人が多いかもしれませんが、「仕事とは、それを通じて世の中に貢献して」その結果、収益も得られるのが本当です。

ですから社会に貢献もしないで、害毒をまき散らしたり、建築偽装、食品偽装などで、人を騙したりすることは、仕事とはいえないのです。

そういう意味で見ると、お金を頂くことが詐欺行為であるかのような仕事?をしている人が多いかもしれませんが・・

かつて日本では、「世の中のお役に立てる人になれ」といって、子供を育てました。そして最低でも「人様に、ご迷惑を掛けないようにせよ」と言いました。

私のところを尋ねて来る人には、それに加えて「何をもって、世の中に貢献したらいいと思いますか」とお話しします。

漫然と「お役に立てる人」では、何を、どう、お役に立てるかはっきりしないし、言葉だけで実際の行動に結びつかないからです。

「自分はこのままでいいのだろうか」

「このままの仕事で、一生終わるのだろうか」

「こんな世の中では、いずれダメになる」という人は多いですが、

では、「何を」「どうしたらいいのか」そして「自分は、何をすべきなのか」と問うと、政治が良くなれば・・教育が悪いから・・社会全体が良くない風潮にある・・と、他人のせいにする言葉ばかりが出て来て、自分がすべきこと「お役に立てるのは、何か」が出てこないのです。

それは子供の頃からも、その目で自分を見ていないからではないでしょうか。今の世の中は、親も、学校でも、そうした目で子供を見て、育てていないからです。

ですから、「その為には、自分の特性を知らなければならないね」「自分の得意なこと、向いていることでなければ、なかなか世の中のお役に立つことなど出来ないよ」と言って、ご自分の好きな事、特に十五歳頃に目指した、あるいは夢に見たことを、まずご本人に出してもらいます。

もちろんこちら独自の方法で、その方の天命を絞っていきますが、まずご本人が「世の中のお役に立てる人になろう」と思わないことには、天命を知っても意味がないからです。

「世の中の役に立つ人」でなければ、世の中の人ら見て「必要のない人」「いてもいなくてもいい人」です。

やはり世の中から必要とされる人になって欲しい。人は、誰かの役に立っている、必要とされているということは、大きな生き甲斐になります。

(アッシー君のように、ただ便利に使われる、という意味ではありません)

しかし自分の適性に合ったことでないと、力も十分に発揮できないのです。そしてあまりに不向きなことを続けていると、健康にも影響が出て来ます。ちょうどどんな優秀な稲でも、砂漠に植えたら枯れてしまう様に・・

「世の中のお役に立てる人になりなさい。その為に何が向いていると思う?」と、育ててあげて欲しいのです。

誰でも、自分に合ったことに出会えれば、目の輝きも変わり、びっくりするような力を発揮します。

理想的には、十五歳の元服(誕生日)の日をもって天命に向って進むのがよいのですが、何才になっても「世の中のお役に立てる人になろう」と思い、自分の出来ることの可能性を探ってみたらよいと思いませんか。

人生は、「気づいた時が、最高の時」だからです。

★ 今日の一言は「935話 素質と環境が人を作る」です。

http://soseinippon.way-nifty.com/blog/

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2011年8月22日 (月)

第20話 天命について

一口に『天命』と言いましても、天命には二つの意味があります。一つは一般に使われている『天から与えられた使命』です。もう一つは、同じく『天から与えられた寿命』です。寿命も天命の一つです。天命にはこの二つがあることを忘れないで下さい。

寿命も天から与えられているので、大切にしなくてはなりません。昔から「天寿を全うする」ということが大切にされたのも、こうした意味があるからなのです。身体に傷を付けることなく、五体満足のまま天寿を全うすることが、いかに大切なことか。

ですから、経営者の方が、経営難から自殺をされたり、学生さんが苛めにあって自殺したりすることなどは、本来は許されないことなのです。心中ものなどで、「天国に結ぶ恋」などともてはやされても、天から与えられた寿命を勝手に絶つのですから、許されるわけがありません。

苦しくとも、ご両親や親しい人に相談して、強く生きて欲しいと思います。こうした生命の大切さについても、単なる抽象論としてではなく、『人の生命は地球よりも重い』ことを、より具体的に教えてあげて頂きたいのです。そして本当に生命の尊さを実感するようにして欲しいのです。

使命については、中学卒業の十五歳で、ご自分の使命を知り、それに向かって以後は高等学校や大学あるいは大学院等、専門の分野に進むべきです。

昔から、十五歳で元服をし、一人前の大人として扱われたのも、この歳が使命を知る大切な時だからです。今はこうしたことが全く教えられておりません。

そして、担任の先生は「あなたの成績なら、この学校なら受かります」と言います。だから、折角高校に行っても、夏休みで退学してしまう生徒が多いと聞きます。

そういう現代の教育ではなく、その子が何に向いているのか、その子の使命は何なのかを見て差し上げるのが、先生の役目なのです。だから、先生は単なるサラリーマンではなく、あくまで聖職者でなければならないのです。

たとえ一年とは言え、その子の人格形成の一端を担うのですから、先生もそうした使命を弁えて教師としての職務に専念して欲しいものです。

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2011年8月15日 (月)

第19話 神の子、人

人は、以前に書かせて頂いたように、神様が人の形の霊成型(ひながた)をお造りになられ、そこに神様の魂(御霊)を分け入れて頂いて作られたのです。

ですから、人は神の子であり、神様と人とは親子で、その間に猿が存在することはありません。

いろいろな歴史教科書の中に、人類の進化として、はじめは猿であったところから北京原人のようになり、そこから段々と進化して現在の人になったと書かれています。

だいたい「先祖を敬え」と言われながら、「自分達の大元の先祖は、猿であった」と思ったら、まじめに手を合わせて先祖を敬う気になれるでしょうか。

猿とは、神様が霊成型を作られたときの失敗作と言われ、「これではとても自らの魂を分け与える気にはならない」と、神々様が去って行ったために、(去る=猿)と呼ばれるようになったのです。

「神様といえども、失敗などされるの?」と思われるかもしれませんが、そのくらい人は精巧に作られており、ほんの少しの狂いでも、五体に不具合が出てしまうほど精密に作られているのです。

人は、神様が全霊を注いで生み出して下さった大傑作。ですから「出来ちゃった」ではなく、「さずかった」と受け止めて頂きたいと思います。

その上、神様は全員に「右向け右」と言えば済むように作ることも出来たのですが、神様は一人一人に個性と言いますか、その人ならではの天性と役目をお与えになられたのです。

ですから、人は一人一人向き不向きがあると同時に、その人にしか出来ない天命とお役目を与えられているのです。早くご自分の使命としての天命を見つけ、これに生きることが、私達人に与えられた運命なのです。

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2011年8月 8日 (月)

第18話 本来の神様と人が祀りあげた神様

日本においては、伊勢神宮の『天照大御神様』をはじめ、いろいろな神様がいらっしゃいます。大勢の神様ですから、これを『八百万(やおよろずの)神様』とお呼びしています。

一方においては、新興宗教の神様などいろいろあって、どの神様を信じていいのか、わからない世の中になっています。

結論から言いますと、古事記の上の巻、すなわち初代の神武天皇様の前までに出て来られる神様なら、安心して神様と言えるでしょう。

これは、天変地異の多かった平安時代に、私達の視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚という五感以外の直感、すなわち第六感で感じるものを畏怖して、魑魅魍魎(ちみもうりょう)に至るまでを、すべて神様として崇めたことから、本来の神様と、人が勝手に作った神様との区別がつかなくなったのです。

そして皇位継承に破れて自殺をされた親王様や今で言う村八分的なことで亡くなられた人達も、その怨霊のたたりを恐れて、御霊社(ごりょうしゃ)として祀るようになったのです。

たとえば、学問の神様として有名な天神様は、菅原道真公をお祀りしています。

菅原道真公は、醍醐天皇の時代に右大臣まで昇りましたが、左大臣の藤原時平に讒訴され、京都から九州の太宰府に左遷されて、その地で亡くなっています。

道真公の死後、天変地異が多発したことから、朝廷に祟りをなしたとされ、それをおさめるために、天満天神としてお祀りすることになったのが天神様のはじまりです。

道真公は、大変に頭の良かった方なので、その後学問の神様としてお祀りされるようになりました。

一般に、合格祈願の時なども、天神様に行かれる方が多いと思います。

道真公が、京都から太宰府に流される時に詠んだ

「東風(こち)吹かば 匂いよこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」という歌や、

その梅が、京の都から一晩にして道真の住む屋敷の庭へ飛んできたという「飛び梅伝説」は、有名です。 

しかし道真公は、人であり、本来の神様ではありません。

日本の神社の中には、祟りを恐れて、あるいはその方の偉業をたたえて神社を作ることはたくさんありました。

ちなみに神様の世界の知恵の神様は、八意思金(やごころおもいかね)の神様です。東京の近くでは、秩父神社にお祀りされています。

こうした流れによって、楠正成公や各藩のお殿様方も神として祀られ、明治維新の吉田松陰先生や軍神としての乃木希典大将や東郷平八郎元帥、あるいは広瀬中佐なども神として祀られるようになったのです。こうした方々は、それぞれ立派な方ですが、人なのです。

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2011年8月 1日 (月)

第17話 田の神様、畑の神様のお話

山には、山の神様がいらっしゃるのと同じように、田には、田の神様がいらっしゃいます。山に対しては、平地の神様でよいのではないかと思われるかもしれませんが、産土の神様の他に、野の神様、田の神様、畑の神様、などがいらっしゃいます。

野原は、自然のままですが、田んぼも畑も、人がお米や、特定の作物を実らせたいと願って作る土地だからです。自然の中には、たくさんの種が飛び交っています。アスファルトの道路などで、地面を覆ってしまっているところだけに住んでいると、気がつかないのですが、畑でも、宅地でも、しばらく手をかけないでそのままにしていると、あっという間に雑草が生い茂ってしまいます。

そんな中で、お米や野菜、果物など、特定の作物をこの土地に主に実らせたいと、人はそこに田んぼや畑を作りました。そして畑を耕したり、種を蒔いたりして、水田であれば田起こしをし、水を引いて、田植えをしていきます。

その「いいお米が取れますように」「いい作物が取れますように」という人の願いに応えて、田の神様、畑の神様が共にお力を出して下さるためです。

ですからなるべくその土地で取れた作物の種を使って、次の年の作物を作ると土地との相性も良く、虫なども寄せ付けない良い物が出来ると言われています。つまりその土地の田や畑の神様のお力が加わった物です。

最近は、その種も外国の種会社で作られたものを買って作ることが多いと聞きましたが、それはFI品種とかで、農薬などをたくさん使わなければならないように、さらに一年限りしか実らない、次の年にその種を蒔いても決して実らないように設計されているのだそうで、田の神様や畑の神様のお力は、ほとんど頂く事が出来にくい状態になっています。

種会社やさらに肥料や農薬などの会社の儲けのためには、必要な事なのかもしれませんが、自然栽培の方達は、はじめ自家採取の種を譲り受け、それを蒔いて土地との相性の良い種を作り出していくと、数年で肥料や農薬などに頼らない丈夫な作物が出来るのだと聞きました。

農薬や肥料が当たり前と思っているときには、はじめ不思議に思っていましたが、それが田の神様や畑の神様が加えて下さるお力なのだと思います。

特に田んぼは、「日本の国は、瑞穂の国」という言葉があるように、水田として他の作物とは異なる独特の作り方をし、そして実ったときには、「一粒一粒に神様の御霊を込めて頂く」と言われています。

それは単なる食べ物としてではなく、日本人の精神に大きな力、感性を与えてくれる力を持っています。どこの国も、その国の主食としての物はありますが、日本人にとってのお米はこうした特別の意味があります。

外国の人が不思議に思い、また感嘆する日本人の独特の感性や、精神力を養う力ともなっているのではないでしょうか。

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