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2012年4月の5件の記事

2012年4月30日 (月)

第55話 神無月と神在月

日本では、一月から十二月までのすべてに、睦月、如月、弥生、卯月、皐月、水無月、文月、葉月、長月、神無月、霜月、師走と言うように、それぞれの月に名前が付いています。

そして、十月は、一般に『神無月(かんなづき)』と言われます。それは、全国の神様が出雲大社に集まられ、一年のことを話し合うので、出雲以外の所には、神様がいなくなる為に『神無月』と呼ばれ、出雲だけは反対に全国の神々様がお集まりになられるために、『神在月(かみありづき)』と言われるのだと伝わっています。

はたしてそうでしょうか。「全国の神様は、すべて出雲の地に集まる」といわれますが、伊勢神宮にいらっしゃる天照大御神様が、出雲の地にお出かけになられ、十月は天照大神様を初め、伊勢の神々様はどなたもいらっしゃらないという話は聞いたことがありません。

つまりこの話には、省略されている言葉があります。

この場合は、「すべての神」ではなく、「国津神はすべて」出雲へ参集するという意味になります。神様の中で「国津神様は」省略されているのです。一般的に言えば、出雲系の神はすべてということです。

神様には、「天津神様」と「国津神様」がいらっしゃいます。天津神様の代表が、天照大御神様、国津神様の代表が、大国主神様です。出雲大社は、その大国主神様をお祀りしているお社です。

したがって、天照大御神様、あるいは天孫降臨系の天津神は、出雲へは行かないのです。にもかかわらず、一般には、すべての神はと伝わったのです。

日本人は、昔から言葉の省略に長けていました。大事な言葉が省略されていても、そこを感性で受け取り、意味を感じ取ることが出来る。それだけ、『以心伝心』で通じ合っていたのだと思います。

「言葉は同じようでも、それが本当は何を指しているのか」に気が付くと、相手の方との意思疎通も滑らかになりますし、更に進めばいろいろな謎とされるところも解き明かされていくことが出来ます。

古事記の最初に、造化三神として、天之御中主神様を中心に、高御産巣日(たかみむすびの)神様と神産巣日(かみむすびの)神様が出られますが、高御産巣日神様は天津神様のご担当であり、神産巣日神様が国津神様のご担当をしておられます。このことを、次回の大国主神様のところで明らかにして参ります。

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2012年4月23日 (月)

第54話 真実に気がつく第一歩 父とは

今日は、「なぜ、父と呼ぶのだろう」と思った単純な疑問からの気づきをお話ししたいと思います。

赤ちゃんが生まれるまでに母親は、十月十日お腹の中で育てて、お産という大きな事業を経て、子供を産みます。肉体的にも、赤ちゃんと臍の緒で繋がっているし、その後も自分の身体からおっぱいをあげて育てます。

だからお母さんが、「ちち=乳」なら分かりますが、じっさいに「ちち」と呼ばれるのはお父さんの方です。

「何でおっぱいの出るお母さんが母で、おっぱいの出ないお父さんを父(ちち=乳)と言うのだろう。」ほんとうに単純ですが、こう言われると気になりませんか。

おっぱいの出ないお父さんのことをちちと言うのですから、私は単純に疑問に思ったのです。でもあるときにはっと、気がつきました。

『それは血統の血(ち)と霊的な霊(ち)というもの、これを先祖から受けて子孫に伝える人。だから血と霊を受け継ぐので、父というのだと。』つまり肉体的なものと、精神的なものの両方を先祖から受け継いで、それを子孫に伝える人という意味だと言うことですね。

身近なこと、それが当たり前に受け取られていることでも、「あれ?これはなぜだろう?」と感じたら問いかけてみること、これが真実に気付かせてくれる第一歩だと思います。

今は、何でも「複雑に」「ややこしく」「わからないように、わからないように」されている勉強のせいで、かえって「なぜ?」と感じる心が働きにくくなってしまったのかもしれません。

そもそも「学問」とは、「学び、そして(疑問に思うことを)問う」ことで、気づき、身についていくもの。ただ一方的に、押しつけられ、詰め込まれるのは、本当は「学問」とは言わず、やはり「勉めることを、強いられる=勉強」なのですね。

子供さんもある時期、うるさいくらいに「なんで?どーして?」と聞いてくる時期がありますね。次々に問いかけてくるのを「うるさい!」と思わずに、向き合ってあげていると「あれ、そういえば、なぜだろう?」と子供の時のような柔軟な吸収力で自分も考えたり、気付いたりしていかれるのではないかと思います。

私の場合は、この単純な質問を、神様に直接お尋ね致しました。そしてお答え頂いたのです。当時は、自分がはっと気がついたと思っていましたが、実は神様がそのお答えを下さっていたことに気がついたのです。

でも「おっぱいの出ないお父さんを、なぜ父と言うのだろう」という疑問がなければ、教えて下さいません。そういうことになろうかと思います。それが大事なのではないかと思います。何でも疑問に思うことです。

「本当かなぁ、何でだろう」と。そうすると教えてくださるのです。でも私の疑問は単純でしょう。おっぱいの出ないお父さんの事を父と言う。何故だろう。それで良いのですよ、それで段々・段々分かって来るのですから。

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2012年4月16日 (月)

第53話 神様の世界の謎 天照大御神様

日常生活において、疑問を疑問として放置してしまうと、真実に気がつきにくいと思います。むしろ私は単純ですから、いろいろな疑問を持ちます。

神様の世界においては、たくさんの謎とされることがありますが、その中でも天照大御神様は、「日本の中心の神様で、伊勢神宮に鎮座しておられる」と言われたり、「太陽神」と呼ばれたりすることに、大変疑問に思っていました。

「日本の中心の神様」ということでは、昔から「一生に一度は、伊勢参り」と言われ、徒歩で旅する時代には、何ヶ月もかけて全国から大勢の人がお参りしていました。

そして各ご家庭の神棚でも、天照大御神様のお札が真ん中に祀られています。毎年暮れになると、近くの神社から天照大御神様のお札とご一緒に、その神社のお札が配られてきます。地元の神様がどなたであろうとも、日本の中心の神様として天照大御神様のお札を真ん中にお祀りしているのです。

そして伊勢神宮は、二十年に一度式年遷宮(神様のお社を新しく作り替えて、お移り頂く儀式)が行なわれています。

他方天照大御神様は、「太陽神だ」とも言われます。

天の岩戸の物語などでは、「太陽の神様である天照大御神様が、天の岩戸にお隠れになられたために、地上は突然真っ暗になってしまいました。」そして「暗闇に紛れて悪いものが大勢騒ぎ出しました」と言われています。

そして「天照大御神様が、岩戸からお出ましになられた瞬間に、周囲は以前のように明るくなりました。」とあります。

つまり「日本の中心の神様で、伊勢神宮に鎮座している神様」と「世界中を照らす太陽の神様」の二つの面をお持ちだということです。

私は、実は長いこと、なぜだろう、可笑しいなと思っていました。「太陽神なら日本の神様というより、世界中の神様の筈だ。太陽は世界中を照らす筈なのに、何故、日本の神様と言われるのだろうか。太陽神なら、世界中どこも照らしているではないか」と。

それなのに天照大御神様は太陽だと言ってみたり、伊勢神宮に鎮座すると言ってみたり、良く分からなかったのです。

あるとき、私が大神様に逆の意味で質問をさせていただいたのです。「大変恐縮でございますが、天地創造に付いてお伺いをさせていただけますでしょうか」と申し上げたら、『そなたの尋ねる天地創造とは、大宇宙の天地創造のことか、それとも地球の天地創造のことか』と反対に聞かれたのです。つまり『この地球が誕生した時のことか、大宇宙が出来た時のことか』と、逆に聞かれたのです。

それで、「え!」と思ったのですが、その瞬間に全てのこと分かったのです。「あー、神様の世界には大の関係と小の関係がおありなのだ」と。

そういえば古事記の最初に、「天御中主神様は、独り神にして、お姿をお見せになられなかった」と書いてあるのです。天御中主神様は、地球担当の神様であると同時に、銀河系の神様だと言われています。

天照大御神様は日本担当の神様であると同時に、太陽系の中心の神様だから、太陽は毎日拝むことが出来るけれども、銀河系の神様である天御中主神様は見る事が出来ないので、お姿をお隠しになっておられる。要するに「

お姿をお見せになられなかった」という表現になったのではないでしょうか。

従って天照大御神様は大の関係では太陽神であると同時に、小の関係では日本担当の神様でいらっしゃるのだと言うことに気がつきました。大事なのは、大神様から逆に「そなたの尋ねる天地創造とは、大宇宙の天地創造のことか、地球の天地創造のことか」と言われ、神様は地球の事を「ちだま」と仰いますが、それだけのことで、全部理解出来るのですよ。閃いてくるわけです。 

神の世界は、大と小という二重の関係になっている。その辺が自分が求めに求めて、常にピーンと張り詰めていれば、そういった事まで解けるのだということです。それが大事なのではないかなぁと思うのです。逆に質問されて、それで謎が解けたのです。

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2012年4月 9日 (月)

第52話 日本のルーツ 

第51話で、神様が人を作られるときに、霊成型(ひながた)と言うものを作り、そこに霊魂を分け入れて下さったと言うお話しをしました。

だから神様と人とは、親子なのだと・・

神様がはじめに霊魂を入れてくださった所を「霊の元つ国(ひのもとつくに)」と言います。要するに霊魂の元である神様の分け御霊をはじめに入れた国ということです。

時が経ち、「霊(ひ)」が「日」になり、

「元」が「本」になったということなのです。

「霊の元(ひのもと)=日の本=日本」です。

これが日本国という意味合いなのです。

この『霊の元つ国』は、どこにあったのでしょうか。その大本になるところは太平洋に沈んだと言われているムー大陸です。かつて大変に栄えたムー大陸が、一夜にして沈んでしまったといわれますが、なぜ一夜にしてそんな大きな大陸が沈んでしまったのでしょうか。謎とされていますね。

これは、昔々のあるときに、宇宙人が神様が作った『霊成型』を盗みに来たのです。それを取られては、大変な事になってしまうために、それで一夜にして海中に没してしまったということです。

かつてムー大陸が沈んだときに、人々が船で流れ着いたのがペルーだとかインカ帝国や東南アジアだったのです。

日本の場合は、島の一部が流れ着いたのです。環太平洋のそうしたところには、不思議なほど共通するものがあると言われます。一つには、大変に霊感というか、感性が優れていると言うことです。

日本からは大変に遠いのに、ぺルーの方の石笛というかオカリナというものを聞くと、昔から知っていたかのような感覚になり、非常に郷愁を誘っていると思います。また東南アジアの山奥の方でも、非常に似た祭りがあるのですね、それは元が一緒で、ムー大陸のところから出ているからです。

日本の地図では和歌山県のところに紀の川というのがあります。紀の川をずぅーと行くと、反対側に四国の吉野川があります。ここから吉野川を遡っていくと、香川県と徳島県の県境を通って、愛媛県の方へ入って、松山の先に陶器で有名な砥部(とべ)というところがあり、そこに断層があります。そのまま延長線で行くと佐田岬のところから別府湾に通じています。

だから別府湾のところから下、それから徳島の方から言うと、吉野川から太平洋側、紀の川から太平洋側、それがムー大陸から流れ着いたと言われているのです。だから日本人のかなりの部分がムー大陸からの元の霊の元つ国の人々であるということです。

紀の川の下のところは、紀州と言います。それから志摩、伊勢、これを称して紀志伊(きしい)の国と言います。そこがムー大陸から流れ着いたところではないかと思われます。

九州の方でも別府から下、阿蘇も含んで天孫降臨の高千穂もムーの地になります。だから昔から日本は、神の国と言われたのです。天孫降臨の高千穂は元のムーのところです。

だから『霊の元つ国=日の本=日本』というのです。

今日は、日の本、日本の意味と、日本人のルーツのお話しになりました。

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2012年4月 2日 (月)

第51話 人として生まれた天命 万物の霊長としての人

今年は、「天命」を主テーマに、講演会のお話しをしていますが、「私の天命は何でしょうか?」と言う前に、「人として生まれた天命」について考えてみたいと思います。この世の中には、人間の他に、たくさんの動物や植物などの生き物が誕生しています。

何でも遺伝子などの部分では、人も動物も、植物もあるところまではかなりの共通点があるそうですが、自分は今人として生まれてきているのを当たり前と思わないで、人として生まれてきた意味を改めて考えて見て頂きたいと思います。

「人は、万物の霊長」と言われますね。ではなぜ万物の霊長と呼ばれるのでしょうか。

その前に、歴史教科書の記述を巡っていろいろな議論が出されています。近年の歴史の捉え方では、いろいろな意見に分かれるようですが、「人類の始り」に関しては、「人類は、サルから進化した」と言っていないでしょうか。

私は「先祖供養をしなさい、敬神崇祖ですよ」と言っています。「神様を敬い、ご先祖を崇めなさい」と皆さんに言っていますが、先祖がサルでは崇められますか。動物園へ行って、「ご先祖様」と言って手を合わせられますか。

人類はサルから進化した、誤解も良いところです。何故違うかということを良く抑えて欲しいのです。人として誕生した、その本質のところから見て下さい。

要するに神様は、何の為に人を作られたのか。神様は自分で何事もしようと思えば出来るのだけれども、しかしそれは霊的なものです。神様のされるのは霊的なものです。ですからそれを現物のものとして作るために人をお作りになったのです。だから建物を作るにしても、霊的に作ることは出来るけれども、現実に建物として作るには、人の手を借りたい。そこで人を作る事を思い付かれた。

その時に何をされたかというと、『霊成型』というものを作られたのです。これは、昔はいろんな物を作る時に『鋳型』というものを作ったのです。例えば粘土の様なもので、その中が壺になるようなものを作っておいて、その中に熱いものを流して行く。鉄製のものであれば鉄をその中に溶かして入れるというふうな形で、容器を作る時などはこういう鋳型というものを作ったのです。ここで神様は霊成型というものを作って、それで人を作ったのです。そして人の形が出来た時の最初の出来そこないがサルなのです。ここには神様の霊魂を籠めることは出来ないと言って、神様が去って行っていかれたので、去る=サルというのです。

そしてもう一度作り直して今度は人が出来たから、その人のところに初めて神様はご自分の霊魂を分け入れたのです。それで「分け御霊」或いは「ご分霊」と呼んでいるのです。

皆さんにも、分け御霊としてのご分霊があります。だから自分を大事にしないとご分霊に失礼になります。ご分霊とご本体である高天原の神様との霊魂どうしを合わせると、物凄い力が出ます。それが皆さんが神社に参拝をする意味なのです。

 だからこそ「人は、万物の霊長」というのです。

従って、神様は自分の現実のものを作るものとして人を作って下さったのだから、その人が生活出来るようにという事で、動物・植物・鉱物、全て人が生きて行くために必要なものを作って下さったのです。植物のものには食べられるものもあれば、見て美しいなぁと鑑賞するようなものも含んで、全て人の為に作って下さったのです。その人の為に作ったものは、これは次々と進化をするのです。だけど人は進化しない。最初から完全なものとして作ってくださったのだから。

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