第54話 真実に気がつく第一歩 父とは
今日は、「なぜ、父と呼ぶのだろう」と思った単純な疑問からの気づきをお話ししたいと思います。
赤ちゃんが生まれるまでに母親は、十月十日お腹の中で育てて、お産という大きな事業を経て、子供を産みます。肉体的にも、赤ちゃんと臍の緒で繋がっているし、その後も自分の身体からおっぱいをあげて育てます。
だからお母さんが、「ちち=乳」なら分かりますが、じっさいに「ちち」と呼ばれるのはお父さんの方です。
「何でおっぱいの出るお母さんが母で、おっぱいの出ないお父さんを父(ちち=乳)と言うのだろう。」ほんとうに単純ですが、こう言われると気になりませんか。
おっぱいの出ないお父さんのことをちちと言うのですから、私は単純に疑問に思ったのです。でもあるときにはっと、気がつきました。
『それは血統の血(ち)と霊的な霊(ち)というもの、これを先祖から受けて子孫に伝える人。だから血と霊を受け継ぐので、父というのだと。』つまり肉体的なものと、精神的なものの両方を先祖から受け継いで、それを子孫に伝える人という意味だと言うことですね。
身近なこと、それが当たり前に受け取られていることでも、「あれ?これはなぜだろう?」と感じたら問いかけてみること、これが真実に気付かせてくれる第一歩だと思います。
今は、何でも「複雑に」「ややこしく」「わからないように、わからないように」されている勉強のせいで、かえって「なぜ?」と感じる心が働きにくくなってしまったのかもしれません。
そもそも「学問」とは、「学び、そして(疑問に思うことを)問う」ことで、気づき、身についていくもの。ただ一方的に、押しつけられ、詰め込まれるのは、本当は「学問」とは言わず、やはり「勉めることを、強いられる=勉強」なのですね。
子供さんもある時期、うるさいくらいに「なんで?どーして?」と聞いてくる時期がありますね。次々に問いかけてくるのを「うるさい!」と思わずに、向き合ってあげていると「あれ、そういえば、なぜだろう?」と子供の時のような柔軟な吸収力で自分も考えたり、気付いたりしていかれるのではないかと思います。
私の場合は、この単純な質問を、神様に直接お尋ね致しました。そしてお答え頂いたのです。当時は、自分がはっと気がついたと思っていましたが、実は神様がそのお答えを下さっていたことに気がついたのです。
でも「おっぱいの出ないお父さんを、なぜ父と言うのだろう」という疑問がなければ、教えて下さいません。そういうことになろうかと思います。それが大事なのではないかと思います。何でも疑問に思うことです。
「本当かなぁ、何でだろう」と。そうすると教えてくださるのです。でも私の疑問は単純でしょう。おっぱいの出ないお父さんの事を父と言う。何故だろう。それで良いのですよ、それで段々・段々分かって来るのですから。
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