第68話 神道とは?
「神道とは何なのか、皆さんが理解しておられる神道を、お伺いしてみたいと思うのですね。神道というと、何を思いだされますか。
難しく考えないで、思いつくまま答えてみて下さい。」
こうお聞きしましたら、
「子供の頃から、太陽であり水であり、自然というイメージがあります。」
「神社や神棚でしょうか。」
「宗教の一つ」
「太陽みたいなもの・・」
「では神社とは?」とお聞きしますと
「年一回、初詣に行くところ」
「七五三の時に、行くところで、子供が千歳飴をもっている」
「受験の時に、合格祈願の絵馬を書いた覚えがあります」
一般的には「神道とは」と聞かれると、多分神社とか、お家の神棚というイメージがあるだろうと思うのですが、最近はお家で神棚もあまり祀っていないので、そのイメージも少なくなってきているようです。
そして神社も、昔は村祭りなどがある度に、鎮守の森へ行ったのですが、最近では多分正月の初詣に行くかどうかだろうと思うのですね。だから逆の意味で皆さんもイメージがわきにくいのです、神道と言われても。神社のイメージさえ出難いという時代になってきているのではないかと思います。
では「神道とは、一体どういうものなんだろうか」ということで見ていくと、一般の人は多分宗教だと思っているのです。殆どの人が宗教だというふうに言われます。
ですから「神道は、宗教ではありません」と私の方で幾ら言っても、「手を合わせて拝むものは、みんな宗教でしょ」「神様、仏様といったら、当然宗教じゃないですか」と思われてしまうのですね。
でも違うのです。
まず神道と宗教の違いをお話ししたいと思います。
宗教とは、「教えるのを宗とする」と書きます。ですから教える人と教える材料が必要になってきます。
だから宗教というふうに捉えると、誰が教えたか。教える材料としてどういうものがあるかということが必要になってきます。したがってキリスト教はイエス・キリストという人が教えて、旧約聖書・新約聖書という聖書がありますよと。そして回教であればマホメットという教える人がいて、コーランという教える材料があるのですよ。仏教はお釈迦様という教える人がいて、仏典・経典という教える材料があるのです。これが宗教なのです。
ところが神道は誰が教えたというものがないということです。誰もいない。そして教える材料も何もないのです。
よく「祝詞が挙がるじゃないか。神社へ行くと祝詞を挙げてくれるよ」といわれますが、祝詞は教える材料ではなくて、皆さんの願い事であるとか、その願い事を叶えてくれたときのお礼として、神様に奏上するものなのです。
教える材料ではないのです。そういった意味では神道には教えたという人もいなければ、教える材料もありませんよということです。
要するに宗教というのは「教えるのを宗とする」と書くわけですから、そういうことには神道は該当しないということになります。
宗教でないのなら、神道とは何だろう。いわゆる茶道であるとかお花の華道とか、匂いの香道とかあるいはスポーツでも柔道とか剣道というふうな道の付くどうというのが多いけれども、神道の場合は濁らないのですよね。しんとうという、どうとは言わない。
神道とは、「神の道」と書くわけですね。
神の道というのは何だろう。
神の道は、別の字では「神の径=神経」とも書きます。私達の体中に通っている神経、それがあるから身体が動いたり、いろいろな事を感じたり、人としての動きが出来ます。私は、「神道とは、生かさせて頂く偉大なお力そのもの」と思っています。
太陽も、水も、空気も、大地などの大自然そのもの、そして人の体内を形作る細胞の働きや体内の絶妙な働き、普段あるときには、あることにすら気がつかないほど自然で、しかし人が生きていく上で欠かすことの出来ないお力そのものを神の径(みち)が繋ぎ、人や生き物に通わせて下さっておられるのです。
「人は、生かされている」といいますが、本当は「生かさせて頂いている」
その偉大なお力そのものを神道というのです。
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