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2012年7月 9日 (月)

第65話 見直し・聞き直し・言い直し その1

伊邪那岐・伊邪那美の神様の国生み伝説のことをもっと詳しく知りたいというご要望がたくさんありました。前話と若干重複するところはありますが、今回は、二神様がご自分達の失敗の理由とこれからは、どうしたらよいかをお伺いするために高天原に行かれた時のことを少し詳しくお話ししたいと思います。

お二人が結婚してはじめに産んだ子供は、背骨のないぐにゃぐにゃな子(ひるこ)でした。

 そこで、伊邪那岐・伊邪那美の神様は、どうなさられたかと言いますと、伊邪那岐・伊邪那美の神様は天津神様ですから、高天原へ行って、造化三神の二番目の神様である高御産霊の神様に、「自分達が産んだ子供は、ひ弱な子でうまくいきませんでした。どこが間違っていたのでしょうか。どうすればよろしいのでしょうか」とお聞きになられました。

 そうしましたら、「女性から先に声を掛けたのがいけないのだ」というお返事でした。現代の社会では、「男性から声をかける」などと言うと、いろいろと文句を言う人も多いかもしれませんが、神様はあくまで「女性から先に声を掛けたのがいけないのです」と言われたのです。

 これは、何も「男尊女卑」という意味ではありません。男性を「木」にたとえ、女性を「実」にたとえたように、ここでは男性を「日」にたとえ、女性を「月」にたとえているのです。そして、日の精のことを日ウルと言い、月の精のことを月ナミと呼んでいます。そうして、太陽である日を中心にして月が巡っているという宇宙原理に基づいて、男先女後が天の運行に最も調和しているという考え方によるのです。

 「だから、男性の方から先に声を掛けるようにしなおしなさい」と言われたので、お二人の神様は今一度天の御柱を巡って、今度は伊邪那岐神様の方から先にお声を掛けるようにされたのです。

 これが古事記の物語なのです。古事記ではそういうふうに、「女性から先に声を掛けたのがいけなかったのだ」という、この一点だけが取り上げられています。

 実際にはいくつかの間違いが指摘されています。他にどういう点が違っていたかと言いますと、まず伊邪那美の神様と伊邪那岐の神様がお掛けしたお言葉が異なっているのです。古事記では伊邪那美の神様は「あなにやし、えおとこを」と言い、伊邪那岐の神様は「あなにやし、えをとめを」と言ったことになっており、「あなにやし」までは同じであったことになっています。

 ところが、「秀真伝(ほつまつたえ)」によりますと、伊邪那美の神様は「あなにえや、ゑ男」と言い、伊邪那岐の神様は「わな嬉し、ゑ少女(おとめ)」と言われたことになっております。「少女」と書いて「おとめ」と読ませています。

この点についても、二度目には伊邪那岐の神様の方から「あなにゑや うまし少女に会いぬ」と言い、伊邪那美の神様が「わなにやし うまし男に会いき」と言われたのです。

 この点をよく見てみますと、古事記の方では「あなにやし」「えおとこを」、「あなにやし」「えおとめを」というように、五文字と五文字になっています。五五になっています。

 ところが「ホツマ伝」の方の一回目では、「あなにえや」「えおとこ」、「あなにえや」「えおとめ」となっています。五文字四文字になっています。五四になる。これを、「ひふみよ」で行くと「四」は「よ」ですから、「五四(いよ)」になりますが、「五四調(いよのしらべ)」では駄目ですよ、とこういうふうになっているのです。

 神様の世界では、このことを「五四の歌 事を結ばず」と言って、五四の歌では物事が成就しないとされているのです。したがって、この点も「あなにゑや」「うまし少女に会いぬ」、「わなにやし」「うまし男に会いき」というように、五と十にし、「五十調(いそのしらべ)」に訂正したのです。このように五四調で歌ったのが、二番目の間違いということになります。

 この辺は古事記では全然出ておりませんので、言葉掛けの内容についてはそのまま二回目も同じ言葉掛けをしたということになっています。要するに、二神様の間違いは「女性から声を掛けたのがいけない」という一点だけに絞っています。

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