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« 第71話 天の岩戸に見る、天照大御神様のご神徳 | トップページ | 第73話 今、大物がいないのはなぜか »
天照大御神様は、岩戸から出て来られて、今まで真っ暗だった世の中が、急に明るくなりました。
そして神々様は、喜びのお言葉を発しられました。
『天晴れ(あっぱれ)、あな面白(おもしろ)、あな手伸し(たのし)、あな清明(さやけ)おけ』と。
「天晴れ(あっぱれ)と言うのは、その字の通り、今まで真っ暗闇だった世界が、天が晴れたように明るくなったということです。
あな「面白」とは、「人々の面(顔)が光を受けて白く映っているよ」という意味です。あな「手伸し(たのし)」、この手伸しいという字、今は「楽」と言う字で「楽しい」と読みますが、このときの「手伸し」は、子供さんがお母さんを見つけたとき、両手を伸ばしてお母さんに飛びついていく、その喜びの姿勢が、「手伸し」です。そう言う全身の喜びを表わす意味なのです。
「手」は、「た」と読みます。手力男神様も、「たじからおの神様」と申し上げます。岩戸の陰から、天照大御神様を岩戸よりお引出しになられた神様です。
そして「あなさやけおけ」というのは、清らかに明るい。なんとさわやかで清らかなことよという意味です。このように神々様は、お喜びになられたのです。
ところがこの「天晴れ」が平安時代になると、「哀れ」になったのです。国文学者も、「ものの哀れ」というふうになっています。天晴れが何で哀れになったのか。それは中身の「しみじみと思う」というのが、本来の意味なのです。あっぱれとは、しみじみとそう思うという、このしみじみとが、しみじみと哀れを感じると言うふうに移っていったのです。
しかし、神様はのように『天晴れ、あな面白、あな手伸し、あなさやけおけ』というふうにお喜びになられたのです。
ところで「現代の天岩戸を開く」にはどうしたらいいのでしょうか。
古事記の話に戻りますが、天照大御神様がお出ましになるとき、どういうことをなされたかということですね。神様の世界でも、知恵の神様と言われる思兼神様が、最高責任者として、神々様は行動なさられました。
まず常世の国の長鳴き鳥を集めて鳴かせ、次に天の安川の川上にある硬い石を取り、鉱山の鉄を取ってきて鍛冶の天津麻羅と伊斯許理度売(いしこりどめ)に鏡を作らせました。
次に玉祖命に多くの勾玉を長い緒に貫き通した玉飾りを作らせました。そして次に春日大社の天児屋根神様と、布刀玉の神様をお呼びになって、天の香具山の雄鹿の肩の骨を抜き取って、同じ天の香具山の朱桜(かにわざくら)を取って、鹿の肩の骨を焼いて占わせ、祭式の次第を準備させたのです。
まず天香具山の良く繁った榊を根こそぎ取ってきて、その上の方の枝に玉飾りを付け、中程の枝に八たの鏡を架け、下の枝には、楮(こうぞ)の幣と麻の青い幣を下げ、その榊の前で天児屋根神様が貴い祝詞を奏上しました。
そして、うずめの神様がたらい桶を逆さまにして、その上で面白おかしく踊り、それを見ていた神々様がどっと笑ったということが、古事記には書かれています。
天照大御神様は、自分が岩戸に隠れて世の中が真っ暗になって、さぞみなが困っているであろうと思っているところに、豪い賑やかに騒いでいるのを不審に思って、一体何事かと、中から声をかけると、「貴方様よりも偉い神様がいらっしゃったので、お祝いをしているのです」。「え?自分より偉い神様がいるの」と、ちょっと開けたところを、手力男神様がさっとあけて、岩戸からお出ししそして早速にそこへ注連縄を張って、「二度とここへお入りになられませんように」と言われました。
そこで注連縄というのは、そういう聖地をあらわすということが一つと、もう一つは二度とここへ入ってはいけませんよという結界を表すという二つの意味があるのです。
現代の状態はどうでしょうか。世の中が真っ暗になって、悪いものがうるさいほどにはびこっている、そして殺人が日常化してきて、ニュースで聞いてもあまり驚かなくなってしまいました。
ですからこういう現代の状態で、天岩戸を開くには、どうしたらいいかと言っても、天岩戸を開く人がいないのですよね。
それぞれの神様が、思兼神様を中心として、天岩戸を開く為に知恵を出し合ったのです。個々の思いを出したりするのではなく、岩戸を開いて天照大御神様に出て来て頂き、世の中を明るくすることに神々様はお心を一つにして行動されました。
今は知恵を出し合うのではなく、くだらない頭で、いかに足を引っ張るかということしかやらないのです。今の民主党と自民党を見ていればよく分かると思います。そうでしょう。民主党から分裂した人達もそうですね。
「国民のために」と言うのは、口先だけであって、中身はいかに相手を引きずり落とすか、気にいらなければ審議にも出ないよという。審議に出ないのなら、職務専念義務違反なのだから、月給は返せと言いたいですが、月給だけはたんまりと持っていくのですよね。審議にも応じないのなら、払う必要ないのですよ、本当は。そう思わないですか。国民の皆さんが大人しすぎるのですよ。そういうことで、その知恵を出し合うというところから先ずはじめないと無理ではないかと思います。
それぞれの神様が、祝詞を上げる神様は祝詞を上げる。鏡を作る神様は鏡を作るというふうに、それぞれの持ち場、持ち場を、確実にこなしていった。そして目的のためにみな神々が心を一にした。それぞれの神様が知恵と力を出し合った。それぞれの持ち場を確実にこなした。目的のために心を一つにした。どれも該当しないんですよね、現代の政治家と言うものは。そうすると天岩戸は開かれませんよと言うことになります。
現在はむしろ自分の役目も自覚できない。政治家も神主も教育者も母親も。どうでしょうね。先ず自分は何をすべきかと言うところから自覚をするしかない。
「人のせい、世の中のせい」にしていますが、そうではなくて、すべて自分一人一人の責任なんだよというところに気付いてほしいのです。そうでないと世の中は、良くなりませんよと言うことです。
2012年8月27日 (月) 神道 | 固定リンク Tweet
とても魅力的な記事でした!! また遊びに来ます!! ありがとうございます。。
投稿: 履歴書の特技 | 2012年9月14日 (金) 10時14分
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コメント
とても魅力的な記事でした!!
また遊びに来ます!!
ありがとうございます。。
投稿: 履歴書の特技 | 2012年9月14日 (金) 10時14分