カテゴリー「日本の伝統」の記事

2012年11月19日 (月)

第82話 勤労感謝の日・新嘗祭

11月23日は、勤労感謝の日です。改めて、勤労感謝の日の意味を調べてみました。「勤労を尊び、生産を祝い、人々が互いに感謝する日」と書かれています。

外国の記念日については、あまり詳しくないのですが、外国では、仕事よりもバカンス・レジャーというお国柄の所もありますので、この「勤労」を「感謝」するということが国民の祝日になっている国は、日本の他には少ないのではないかという気がします。

実は「勤労」に対する考え方は、日本の大きな特徴です。

「働く事に、働けることに、感謝する。働く場があることも、働ける健康があることも、ありがたい事だと感じる国民性。しかし、このことが今かなり薄れているように感じます。

「働け!働け!寸暇を惜しんで働け!」の時代から、「よく働き、よく遊ぶ」になり、今は「シブシブ働き、嬉々として遊ぶ」となり、さらには「働かなくても、生活保護」という気持ちの人まで増えてきている時代です。自分一人がどうこうではなく、世の中全体の流れがそうなっていると、それがいいことのように麻痺してしまいます。それでよいのだと。

しかし勝ち残り組は、決してそうではないのです。数は少なくても、「こんなにやるのか」と驚くほど真剣に働いている人はいますし、その結果、良い仕事、良い成果を出して大きく伸びているところもあるからです。

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2012年11月12日 (月)

第81話 七五三の本当の意味

今日は、七五三の大事な意味をお話ししたいと思います。
十一月十五日は、七五三のお祝いの日です。

七五三は、七歳(女の子)・五歳(男の子)・三歳(男女ともに)の時に行ないます。

満年齢か、数え年かとよく尋ねられますが、それはどちらでも大丈夫です。いつも満年齢でお祝いをしている人は、満年齢でされればいいですし、数え年で祝い事をしてきた方は、それでも大丈夫です。ただ数え年と満年齢の両方で二回は出来ませんので、どちらかに決めて行なって下さい。    

三歳は『髪置き』と言います。ようやく髪が揃ってくるという事ですね。そして五歳の時は『袴着』、七歳は『帯解け』と言います。三歳の時は男女共に、五歳は男の子のお祝い。七歳は女の子のお祝いです。

七五三の時に、神社に行くときには、正装していきます。
男の子は、五歳の七五三の時に羽織、袴や子供用のスーツなどを身につけ、女の子の七歳の七五三に、子供用の振り袖やワンピースなどを着てお参りします。

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2012年9月17日 (月)

第75話 お彼岸のお中日と皇霊祭の意味

お彼岸のお中日は、春・秋それぞれ春分の日、秋分の日といい、昼と夜の時間が同じ日だといわれています。そしてその日を境に、日一日と、昼が長くなる、あるいは夜が長くなっていきます。

「太陽は、東の空から昇る」と言われますが、季節によって水平線、地平線から顔を出す位置が大きく変化し、真東から昇るのは、この春分・秋分の日だけです。ですから「この日は、太陽と東西南北の方位がぴたりと合う日」ということになります。

そこで神道では、この日に春季皇霊祭、秋季皇霊祭という御祭を行います。        

太陽の神様である天照大御神様の直系の子孫としての歴代の天皇様の御霊を通じて、神様に通じる日なのです。

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2012年8月13日 (月)

第70話 お盆について  その2

お盆の場合には、お彼岸の時と違って、修羅界・餓鬼界・畜生界の他に、地獄界からもご先祖の方々が戻って来られます。

しかも、お墓にではなく、お位牌にお懸かりの高いところにいらっしゃるご先祖の方から、直接いろいろとお話を伺うことの出来る大切な時です。

特に地獄から帰られる御霊にとりましては、そうした方からのお諭しやお話を伺えるだけでなく、お食事を頂くにしても、まさに年に一度の機会です。

ですから、十二分に身・心・霊共に癒して頂くと共に、また高き世界へとお遷り頂く絶好の機会でもあるのですから、お供養の方もそれに相応しいだけのものを、十二分にさせて頂こうではありませんか。

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2012年1月16日 (月)

第40話 節分の豆まき、してはいけない

「鬼は、外! 福は、内!」

二月三日の節分には、神社仏閣などでも、その年の有名人の年男が盛大に豆まきをします。

「鬼は、外に追い出して、福はわが家にドンドン来て欲しい。」だから節分にはそれぞれの家でも、炒り豆を買ってきて、豆まきをする習慣があります。

ですがこの豆まきは、実はしてはいけないことなのです。生の大豆ではなく、「炒り豆」であることにその意味があります。「福を呼ぶつもりでしている事」が、実は、神様に対してのとんでもない失礼になっていますので、そのことをお伝えしたいと思います。

実は、豆まきの時に言われる「鬼」と言われているのは、「大神様」の事だからです。「鬼」と言われるのは、本当に「悪い鬼」の場合がほとんどですが、神様がお怒りになられたときのお姿も『鬼』という言い方をすることがあります。

世の中には、残念ながら悪魔や悪いものなどはいます。それを叱ったり、退治したりするときの神様のお顔は、大変に怖いもので、それを(悪ものの)鬼が震え上がって退散するほど怖い『鬼』というのです。

『神の子、人』と呼ばれながら、人は、長いその歴史の中で、次第に神様から離れて、今は神様に通じることが出来る人が本当に少なくなってしまいました。しかし、かつて神様と本当の親子として、お姿を見、お話しも出来て日々通じ合うことが出来た時代がありました。

その頃の人は、『神人(しんじん)』と呼ばれていました。それが「神」の字が取れてしまった「人」となってしまいましたが、それでも互いに支え合えという意味で、「人」という字を書きました。今は神様と人の間が出来てしまった「人間」になってしまいました。間が出来てしまったのですから、神様と通じることも出来なくなり、だからこそ神様の側からは、「早く神との間を抜け、間を抜け、間抜け」と言われました。「間抜け」とは、人同士で言う言葉ではなく、神様が人に向っておっしゃられる言葉です。

その「神人」の時代に、天地創造の大神様が、大宇宙にお出かけになられるご用が出来ました。(大宇宙を作られた神様ですから、地球だけにいらっしゃるのではなく、広い宇宙の全てを見ておられます)

それまでは貴い神様のご威光で、ほとんど悪いことも出来ず隠れていたもの達が、これで大神様に叱られることもないとばかりにはしゃぎました。

その時に大神様は、お尋ねになりました。

『われは、いつまで大宇宙に行っていればよいかの』

それに答えて、悪いものたちは「炒り豆の花の咲くまで」「炒り豆に芽が出るまで」と言いました。

炒り豆に芽が出ることも、花が咲くことも絶対にありません。つまり「絶対に返ってくるな」と言ったのです。更に炒り豆を投げて、「鬼は、外!」とはやし立てることまでしたのです。

それが節分の豆まきの始りです。現在は、決してそのような神様に失礼をするという気持ちで豆を投げてはいないと思いますが、それが始まった元は何かを考えますと、人類が根源の神様にしている大きな失礼の一つであることに変わりはありません。

節分の豆まきの習慣は、「今まで知らぬ事とは言え、神様に大変な失礼をいたし、申し訳ありませんでした。」といったん全て取りやめ、その上で数年の間を置いた後に、「改めて、(本当の悪い)鬼を追い出し、各ご家庭にも福を招くことが出来るように『鬼は、外!、福は、内!』と豆まきをさせて下さい。」と願い出るべきではないでしょうか。

        今日の一日、一言は、

1074話 たくさんの知識を得た人よりも

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2012年1月 9日 (月)

第39話 成人式と元服

成人式、おめでとうございます。今日から大人の仲間入り・・

大人になると言うことは、今まで制限されてきたこと、たとえばお酒などもおおっぴらに解禁でもあり、ある意味で自由?になります。

しかし大人になるのは、同時に責任も加わるということです。

一般的に言われる「犯罪を犯したら、実名が出る」と言うような責任だけでなく、『人生に対する責任、自分が果たすべき使命』に対しての責任も加わります。

ところで現在の成人式は、二十歳ですが、かつて武家社会では、十五歳になると『元服』の儀式を執り行い、大人の仲間入りをしました。

現代の成人式よりも、五年も早いのですが、神様からご覧になられたときには、実はこの「十五歳で成人」が本当なのです。

人の天命は、出産の時までに八割くらい決まり、その後三歳で「三つ子の魂、百まで」と言われる魂を加えて頂き、そして十五歳の時に、天命を知る年と言われています。それに向けてはっきりと歩み出す年だからです。

人の身体には、六十兆の細胞があると言われています。誕生してから十五歳までに次々に細胞の数が増えて、十五才頃にその六十兆の細胞になるそうです。

『細胞の一つ一つも、神様である。』というと、にわかには信じがたい、ピンときにくいかもしれませんが、その人の人生に必要な神様が、そろわれるのが十五才なのです。

成人式が、一月十五日でなくなってからもう十年くらい経ちます。

政府の方針で、祝日と日曜日を続けて、連休を増やすために、成人式は一月十五日から第二月曜日に変更となったからです。

しかしその切り替えの年、「荒れる成人式」という言葉で報道されたほど、成人式の会場で、奇声を上げたり、式典を遮ったりする若者が続出しました。

その時には、「年だけ二十歳になっても、大人になる資格はない」「身体だけ大人になって、心はまるで育っていない」とほとんどの人は見ていた事と思います。

確かに精神的に成長していないから、式典の秩序も守れなかったということは否定できません。

しかしその根底にある理由は、日にちが十五日から別の日に変更になったことにあります。もともと「十五」という数字に大切な意味があります。

言霊(ことだま)は、皆さん聞いた事があると思いますが、数にも意味があり「数霊(かずたま)」と言います。易などでも、お名前の画数等で数を使って占いますが、ここでは神様から教えて頂いた数の意味をご紹介します。

一 二 三 四 五 六 七 八 九  十

ひ ふ み よ い む な や この たり(と)

と読みます。そして一(ひ)から七(な)までは、(ひな)=雛であり、

八で開けると言う意味になります。

そして九は、宮中を表わし、十は、神を表わします。

さらに五を中心に、四と六=十、さらにその隣は、三と七=十

更に隣は、二と八=十 その隣は、一と九=十  全て十=神になります。

その神々様の中心として、五は大神様を表わします。

十五とは、大神様と神々様の数字であり、だからこそ人がこの世に生まれてきた大事な意味に通じる「天命」に関わりがあるのです。

本当に「天命」などについて知りたい方は、講演会などにご参加頂ければと思いますが、ここでは「十五才は、天命を知る年」であり、神様からご覧になられて、以後成人(大人)としての扱いになります。

 

*今年の小田原講演会は、「天命」を中心にした話を予定しています。*

本当は、成人を二十歳まで待つのは大変にもったいないことです。生まれながらの天命を知りそれに向けて動き出さなければならないのに、そうしたことも知らずに二十歳までの貴重な五年間を過してしまうからです。

しかし神様も人の世界の事はご存じですから、十五日の成人式の時には、十五という数字で、その天命に通じることが出来、成人としてのお力も入れて頂いていました。

それを人の側で連休を増やすために、あるとき突然にその日にちをずらしてしまった為に、成人式が荒れたのです。

「未熟な若者」とか、「大人になれない成人式」などと揶揄されましたが、本来の魂が「これはおかしい!」と反応したとも言えます。

今年成人を迎えられる方で、気になられる方は、役所などの式典とは別に、十五日に改めて神社に行かれたらよいと思います。もともと天命に関わる元服は神様にお願いするものですし、かえって素晴らしい成人としてのご出発になられると思います。

源氏の大将、源の義家公も、京都の石清水八幡宮で元服をし、以後「八幡太郎義家」と名乗り、歴史に残る活躍をされました。

どうぞ素晴らしい成人式、素晴らしい人生となりますように。

        今日の一日一言は、

 「第1067話 気づきが、人生を変える」

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2012年1月 2日 (月)

第38話 鏡餅と鏡開き  

明けましておめでとうございます。

本年も、どうぞよろしくお願い致します。

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お正月に飾った鏡餅は、「鏡開き」をしてから、お汁粉やお雑煮などにして食べます。

鏡開きは、武家の風習から始まったもので、切腹などに通ずる餅を「切る」という言葉を避けて、木槌などで「開く」ようになったとされ、お正月に供えて「歳神様のお力の籠もった鏡餅を頂く事で、一年の無事息災を約束される」と言われています。

一般に鏡開きは、十一日にすると思われています。

もともとは二十一日に鏡開きをしていましたが、徳川三代将軍家光が四月二十日に亡くなったので、この日を避けて十一日に鏡開きをするようになったからだそうです。

しかしこの元々にしていた『二十一日が、鏡開きをする日』です。その理由をお話しします。

鏡餅は、上と下に重ねて床の間などに飾られた丸餅です。

そこに神様の元旦から二十日まで、神様のお力が入られます。

神様の世界には、太陽系(日)の神様と月系統の神様がいらっしゃいます。

その両方の神様のお力が合わさることにより、新しい力がそこから生まれ、そして昼と夜、陰と陽の両方に神様のお力が、あまねく行き渡るようになります。

鏡餅には、そのお力が込められています。

「数」にも、大切な意味があり、「十」という数は、「神様」を表わし、「二十」は「二重の」という意味があり「神々様」を表わします。

(詳しく知りたい方は、講演会などにお越し下さい)

十日までお供えして、十一日に鏡開きをしてしまうと、その片方の神様のお力しか頂くことが出来ません。鏡餅の上のお餅には、太陽(日)の系統の神様のお力が、下のお餅には、月の系統の神様のお力が入られます。

ですから二十日までお供えして、二十一日に鏡開きをして下さい。

しかし、いきなり木槌で、鏡餅を叩き割ることをしてはダメです。そんなことをしたら、鏡餅に込められたお力を頂くことは出来ません。

そしてその鏡開きは、一家の誰がしても良いのでは無く、「家長」(社長)が行ないます。その人が行なわない限り、神様からその力を頂くことが出来ません。

家長(社長)となる方は、鏡餅に込められた神々様のお力を頂き、さらにご家庭や会社内をいかなる時も、明るく照らし、統率することが出来る力を発揮していくためです。

中心があって、秩序も保てれば、組織も整います。

宇宙の法則を見ても、私達の太陽系でも、太陽を中心にしてそれぞれの惑星が巡ります。一家の中でも、「家長」(会社では、社長)となる人が、中心となり家族に力と光りを与えて束ねていくのが、本来の姿なのです。

家長(社長)は、鏡餅の前に正対して、柏手を打ち

「ただ今から、鏡開きをさせて頂きます。家長として(社長として)責任を持って、家族(社長)を束ねていくことが出来る為にもどうぞよろしくお願い致します。」とご挨拶をして、その鏡餅からそのお力を頂くために、気持ちを鎮めて向き合って下さい。

本当の意味で、鏡開きの方法は、言葉だけではお伝えしきれません。直接お会いしてその呼吸をお教えしなければ初めての方は、出来にくいかとは思いますが、少なくとも謙虚にそして真剣にそのつもりになってご挨拶して下さい。

どうぞ良い一年にして下さい。

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2011年7月 4日 (月)

第13話 「敷居は踏むな」の意味、知っていましたか?

「敷居は踏むな」という言葉は、昔から言い伝えられていますが、なぜ敷居を踏んではいけないのでしようか。

ただ意味も分からず「敷居を踏んではいけない」と言われると子供さんは余計におもしろがって、ドンドンと踏んでしまいます。

「いけません」と注意すると、子供さんは「どうしていけないの?」と聞いてきますね。でも答えられなくて、「ダメだから、ダメなんだ」では、子供さんは納得しません。

「しきい」を、今のような「敷居」という字を書いていると、その意味は分からないことになってしまいます。

敷居の上は、なんと言うでしょうか。最近はあまり聞かれなくなったかもしれませんが、「鴨居」と言います。

「鴨」という字の「甲」のところの真ん中の棒を短くすると「田」になります。そして田の鳥と書くと「鴫(しぎ)」という鳥になります。

つまり「敷居」と読んでいるところは、本当の意味は「鴫居」です。

「鴨」も「鴫」も、どちらも水鳥です。上側は、「鴨居」ですから、「鴨」がおり、下は、「鴫居」ですから、「鴫」が居て、その水鳥が、上と下から現代的なスプリンクラーのように、その家を火災から守って下さるのです。

元々の日本家屋は、木造建築が主でしたし、さらに障子や襖などは紙で作られていましたから、とても火災に弱い作りでもありました。

その為、防火の神様として、水鳥にたとえ、その家を火災から守って下さっていたのです。ですからその防火の神様の居る敷居を踏んだりしますと、神様がその敷居からお離れになってしまいます。それで「敷居を踏むな」と言い伝えられてきたのです。

ちなみにこの防火の神様は、「みずはのめの神様」と言い、龍田大社の神様です。

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