カテゴリー「日記・コラム・つぶやき」の記事

2011年12月12日 (月)

第35話 その人の運気を見ての判断

今日は、少し毛色の変わった話をします。

同じ条件、同じ問題に対しても、その人がその時に持っている運や、発している気によって、出てくる結果は異なるものです。

それは私の恩師で、日本有数の特別な易をしている方も言っておられました。

その方は、従来の易に、神道の要素とご自分独自の秒単位の時間を組み合わせて、その的中率は、99.9%と言われていました。

それを聞いて、ある大企業がコンピュータ占いのような形で、使わせて欲しいとの申し出があったほどですが、きっぱりとお断りをされていました。

「私の易は、確かに99.9%当たるという自信はあります。しかし、たとえ99.9%当たったとしても、それが興味半分、遊び半分の人の時に当たり、本当に人生をかけるご相談の人の時に、それが外れたら意味がないのてす。

そして同じ卦が出ても、結果は同じではありません。最後の決め手は、その人がその時に発している気で判断するのです。

それは絶対に機械では出来ません。直接お目にかかって見るしかないのです。」と言われ、もったいないと言われながら、コンピュータ化しませんでした。

どんなにその人が持つその時の運気が良くても、それを活かす人の気持ちが引けていたのでは、活かすことは出来ないと言うことです。

目の前にチャンスがぶら下がっていて、手を伸ばせばいいだけの時でも、何もしないで時間だけ過してしまう人が、実は結構多いのです。「誰かが何とかしてくれるだろう。」「誰も何もしてくれない。」と愚痴る人がいますが、誰も何もしないのではなく、自分が何もしなかったために、いい運も過ぎ去ってしまうことに気がついていないとしたら、本当にもったいないことです。

人生は、時として自分にだけ苦しい様に見えますが、大きな目で見たときに、実は大変に平等に「運」は巡ってきているのです。要はそれを受け入れるか、受けいれないかの違いであり、行動するか、しないかの違いではないかと思うのです。

良い運勢も、自分のその時の気迫と釣り合った動きになるはずです。

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2011年11月 7日 (月)

第30話 武人の天命を生かす

だいぶ前になりますが、その当時、日本の中でも花形的に注目されていた会社の社長さんから講演依頼を受けたことがあります。一般的には、そうしたことをきっかけに、その経営者とお近づきになれたら、いろいろな面でとても良いのではと思いますね。

しかし神様からストップがかかってしまいました。「あの会社は、神、仏と言えども、金儲けになるとあれば、平気で金儲けの道具として使う(神具、仏具屋さんではありません)。どんなに金持ちであっても、あの社長の魂は乞食故、行ってはならぬ。」というお伝えでした。

「えっ?もったいないのでは・・」と瞬間、思いましたが、神様からのお伝えは絶対です。すぐに丁重にお断りして、結局先方には行きませんでした。

ところがその直後に、「○○組というやくざのところから、依頼があった時は行って話してきてよい」と言われたのです。「は?」と思いましたが、続けて

「今、やくざの世界に入っている人でも、本来進むべき方向、生き方を誤ってその道に入ってしまって人も多い。そうした人達が、そなたの話を聞いて、はっと気がつくことがあれば、価値がある。」と言われたのです。

歴史をみても戦国時代等の武家社会や、戦争中などには、武将、武人が大活躍をしました。しかし戦が終わり、平和な時代になったときに、こうした戦上手な人に出世の糸口や、力を発揮できる場所はなかなか見つかりにくいものです。

「武人」としての素質を持った方は、平和なときには、警察官か、自衛官以外は、あまり活躍の場は少なく、気がついたらヤクザに入ってしまっていたということもありえるのです。

『武』という字は、戦うという意味よりも、「戈(ほこ)」を「止める」という意味を持ち、「武人」は、戦、争い、混乱などを治める役目とも言えます。

ですから災害などの緊急事態に対応する時には、素晴らしい力を発揮します。阪神淡路大震災の時に、山口組の人達が被災された方達に大変に素晴らしい救援活動を行なったのだということを、神戸にお住まいの方からお聞きしたことがあります。

特に女性の生理用品や赤ちゃんの粉ミルク、おしめなど、普通では気がつきにくいところまでの気の配りようであったそうです。

今、世界的に地震、大津波などをはじめとしての天災が多発していますし、また世の中の混乱を治めたり、今までの旧悪を壊して、新しい世の中を切り開くためには、「武人」としての素質を持つ人は、いい意味で大変に大きな力を発揮出来るのです。

ちなみに京セラの稲盛会長も、若いときに就職先がなかなか決まらなかったときに「世の中はどうしてこんなに不公平なんだ。どうせまともな職に就けないなら、いっそのことインテリヤクザにでもなってやろうか。こんな不公平な社会よりも、仁義に厚いヤクザの世界の方がよっぽどましだ、と繁華街にある組事務所の前を行ったり来たりした。」というお話しが、自叙伝としての本に載っていました。

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2011年9月 5日 (月)

第22話 人はなぜ生まれ、どう生きるべきか

今日は『人の本質』について、「人は何故生まれ、どう生きるべきか」というお話をさせて頂きます。

結論から言うと、人は『天命に生きるのだ』ということす。

天命は天から命じられた『使命』と、天から与えられた『寿命』の二つの意味があります。各人が与えられた寿命の範囲内に、果たすべき使命を全うする。これが大切なのです。

しかし自分の使命が何だか分からないままに、人生を過し、そのままこの世を終わってしまっている人が多いのです。

現代社会そのものが、根本的に違っている事は、一体何なのだろうか。学校教育においても、いわゆるテストの成績のいい人が、頭のいい人であり、いい人だとされていることです。

テストの成績が悪いと、「あの人は馬鹿だ」とか、「落ちこぼれだ」というふうに、人の価値を、成績で決めていることが、一番の原因ではなかろうか。

頭が良くても、法の目をくぐって悪いことをする人の方が、最も悪いのだけれども、一般の評価は、学校のテストの成績で評価をしています。

むしろその人の適性が何なのかという方向に目を向けて頂きたい。しかしそういった事は全く検討されていない。その人は何が適性なのか、何に向いているのかという事には、全く目を向けられていない。人格形成についてこそ、教育者が最も意を用いなければならないことなのです。

皆さん自身が振返ってみて、「貴方は何に向いていますよ」と言われた経験のある方がいらっしゃいますか? 多分いないでしょう。

駄目なことは言ってくれるけれども、いいことは言ってくれないのです。それが現在の世の中を作っているのだということに、もう少し皆さん自身が目を向けて頂きたい。

悪いという方は指摘されるが、貴方はこの方向に向いているから、そちらに進みなさいとは誰も教えてくれないのです。これが現代社会を構成しているのです。

だから今の世の中は、テレビでも、人の欠点は「ああだ・こうだ」という番組は一杯あります。しかし、こういうことをするといいのですよという番組は殆んどないのです。

世の中自体がそういうふうに動いている。世論の旗振り役のマスコミがそういうものしか作らない。世の中を良くしようという意図のマスコミの人が居ない。スポンサーにしても、「よくあんなくだらない番組に金を出すなぁ、広告を出すなぁ」と思う。

少しでもいいから世の中の役に立つような番組制作にお金を出しましょうというのならいいけれども、くだらないミーちゃん・ハーちゃんと、とにかく変わっていれば番組に出られるという世の中です。いい番組には中々金を出さない。またいい番組は皆さんが見ようとしないという時期になっております。

そういった意味でも皆さん自身が、自分の適性は一体何だろうかと考えて頂きたい。自分は何に向いているのだろうか。自分の適性は一体何なのだろうかと考え直して頂けたらと思います。

本来は十五歳までに、自分は将来何になるべきかということが分かるようにしておきたいものです。しかし今は中々そういうことは難しい世の中です。「貴方の今の成績なら、この学校なら受かります」という今の制度では、進学はしてみても、一学期で退学してしまうという実態をよく見て頂きたい。

先生は、わずかの期間であっても、生徒さんの人格形成に携わっているのだから、単なるサラリーマンではなく、聖職者であって欲しい。教え子の将来をも見守ってあげられる人であって欲しいと思います。

そして教え子が、寿命の範囲内に使命を全うすることが出来る人生を送れるようにしてあげて欲しいのです。そうすれば、みんなが豊かで幸せな人生を送ることが出来るようになると思います。

次回は、海幸彦と山幸彦の話です。この話から天命を見てみると・・?

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2011年8月29日 (月)

第21話 世の中のお役に立てる人になれ 

現在、「仕事とは?」と尋ねると、「金儲けのため」と答える人が多いかもしれませんが、「仕事とは、それを通じて世の中に貢献して」その結果、収益も得られるのが本当です。

ですから社会に貢献もしないで、害毒をまき散らしたり、建築偽装、食品偽装などで、人を騙したりすることは、仕事とはいえないのです。

そういう意味で見ると、お金を頂くことが詐欺行為であるかのような仕事?をしている人が多いかもしれませんが・・

かつて日本では、「世の中のお役に立てる人になれ」といって、子供を育てました。そして最低でも「人様に、ご迷惑を掛けないようにせよ」と言いました。

私のところを尋ねて来る人には、それに加えて「何をもって、世の中に貢献したらいいと思いますか」とお話しします。

漫然と「お役に立てる人」では、何を、どう、お役に立てるかはっきりしないし、言葉だけで実際の行動に結びつかないからです。

「自分はこのままでいいのだろうか」

「このままの仕事で、一生終わるのだろうか」

「こんな世の中では、いずれダメになる」という人は多いですが、

では、「何を」「どうしたらいいのか」そして「自分は、何をすべきなのか」と問うと、政治が良くなれば・・教育が悪いから・・社会全体が良くない風潮にある・・と、他人のせいにする言葉ばかりが出て来て、自分がすべきこと「お役に立てるのは、何か」が出てこないのです。

それは子供の頃からも、その目で自分を見ていないからではないでしょうか。今の世の中は、親も、学校でも、そうした目で子供を見て、育てていないからです。

ですから、「その為には、自分の特性を知らなければならないね」「自分の得意なこと、向いていることでなければ、なかなか世の中のお役に立つことなど出来ないよ」と言って、ご自分の好きな事、特に十五歳頃に目指した、あるいは夢に見たことを、まずご本人に出してもらいます。

もちろんこちら独自の方法で、その方の天命を絞っていきますが、まずご本人が「世の中のお役に立てる人になろう」と思わないことには、天命を知っても意味がないからです。

「世の中の役に立つ人」でなければ、世の中の人ら見て「必要のない人」「いてもいなくてもいい人」です。

やはり世の中から必要とされる人になって欲しい。人は、誰かの役に立っている、必要とされているということは、大きな生き甲斐になります。

(アッシー君のように、ただ便利に使われる、という意味ではありません)

しかし自分の適性に合ったことでないと、力も十分に発揮できないのです。そしてあまりに不向きなことを続けていると、健康にも影響が出て来ます。ちょうどどんな優秀な稲でも、砂漠に植えたら枯れてしまう様に・・

「世の中のお役に立てる人になりなさい。その為に何が向いていると思う?」と、育ててあげて欲しいのです。

誰でも、自分に合ったことに出会えれば、目の輝きも変わり、びっくりするような力を発揮します。

理想的には、十五歳の元服(誕生日)の日をもって天命に向って進むのがよいのですが、何才になっても「世の中のお役に立てる人になろう」と思い、自分の出来ることの可能性を探ってみたらよいと思いませんか。

人生は、「気づいた時が、最高の時」だからです。

★ 今日の一言は「935話 素質と環境が人を作る」です。

http://soseinippon.way-nifty.com/blog/

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2011年8月22日 (月)

第20話 天命について

一口に『天命』と言いましても、天命には二つの意味があります。一つは一般に使われている『天から与えられた使命』です。もう一つは、同じく『天から与えられた寿命』です。寿命も天命の一つです。天命にはこの二つがあることを忘れないで下さい。

寿命も天から与えられているので、大切にしなくてはなりません。昔から「天寿を全うする」ということが大切にされたのも、こうした意味があるからなのです。身体に傷を付けることなく、五体満足のまま天寿を全うすることが、いかに大切なことか。

ですから、経営者の方が、経営難から自殺をされたり、学生さんが苛めにあって自殺したりすることなどは、本来は許されないことなのです。心中ものなどで、「天国に結ぶ恋」などともてはやされても、天から与えられた寿命を勝手に絶つのですから、許されるわけがありません。

苦しくとも、ご両親や親しい人に相談して、強く生きて欲しいと思います。こうした生命の大切さについても、単なる抽象論としてではなく、『人の生命は地球よりも重い』ことを、より具体的に教えてあげて頂きたいのです。そして本当に生命の尊さを実感するようにして欲しいのです。

使命については、中学卒業の十五歳で、ご自分の使命を知り、それに向かって以後は高等学校や大学あるいは大学院等、専門の分野に進むべきです。

昔から、十五歳で元服をし、一人前の大人として扱われたのも、この歳が使命を知る大切な時だからです。今はこうしたことが全く教えられておりません。

そして、担任の先生は「あなたの成績なら、この学校なら受かります」と言います。だから、折角高校に行っても、夏休みで退学してしまう生徒が多いと聞きます。

そういう現代の教育ではなく、その子が何に向いているのか、その子の使命は何なのかを見て差し上げるのが、先生の役目なのです。だから、先生は単なるサラリーマンではなく、あくまで聖職者でなければならないのです。

たとえ一年とは言え、その子の人格形成の一端を担うのですから、先生もそうした使命を弁えて教師としての職務に専念して欲しいものです。

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2011年6月27日 (月)

第12話 天命を知る年は、十五才 

今、成人式は二十才ですが、かつて男子の成人の儀式は、『元服』といって十五才で行なっていました。

実は、人が天命を知り、それに向って人生を進んで行くのは、この十五才だと言われています。本当ならば、その年までに「人としての基礎」を学び、十五才からは「自分の天命、適職に合わせての学びや鍛え」をしていくことが、人生の歩みとして正しいのです。

しかし、現在の十五歳は、高校一年生です。それに目を向けて、考えたり、調べたりする人はほとんどいません。

「自分の適職は?」「自分は何に向いているのだろうか?」などに目を向ける機会や、指導をしてくれる方は、学校でも社会でも、家庭でも、ほとんど無いままに過してしまいます。

そしてクラブ活動に夢中になるか、あるいは受験校で大学受験に向けて、ひたすら勉学に励むか、しかしそれも何になりたいから、その為の学びとしてするのではなく、大学に入るためだけに勉強しているのではないでしょうか。

しかしそれでは、人生の目的が、何なのか、何を目指し進んだらいいのかが分からないまま大事な時間を過すことになってしまいます。

成人は、二十才、大学卒業は二十二才、それまでは適性・適職に目を向けないで過してしまうと、その五年間、七年間は、人生にとってものすごく大きな損失になります。

「鉄は熱いうちに打て」と言いますが、十五才で天命がはっきりした直後の数年間は、最もその適性を伸ばしたり、磨いたりするのに効果の大きい時期だからです。

大人になって「自分は果たしてこの会社で一生を終えるのだろうか」「こんな事をしていていいのだろうか」と悩み、生き甲斐もなく、ただただ給料日と週末の休みのみを楽しみにして人生を過すことになってしまいます。

しかしそんな人は、会社でも不要ですから、真っ先にリストラ要員にされてしまいますね。

また、今まで順調に来ていたのに、高校に入った途端に、突然失速するお子さんが出ることがありますが、ただ新しい学校になじめないだけでなく、自分の天命にあっていない学びを拒否する、感性の良いお子さんにそうしたことが起きることがあります。

そんなときは「今まで明るかったのに、どうして?」「何でそんなに気力がないの」と責めるだけでなく、「この子は、本当は何に向いているのだろうか」と見てあげて下さい。今問題のイジメということも考えられますが、そうでなければ、その子に合わないことを学ばせている可能性もあるからです。

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